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世界危機と身体の”あや”~2020年の手遊び考

最近、娘がよくあやとりをして遊んでいる。

自分も大抵の遊びは一緒にやりたいと思っているし、現にやっているのだけど、あやとりだけはどうも苦手で、誘われてもそそくさと自分の部屋に退却してしまう。あやとりの本を見ても手順の指示が不親切で理解できないし、できないとすぐイライラしてくる。娘の方はというと、偉いもんで自分でいろいろと試行錯誤しながら作れるものの幅をどんどん増やしていっている。

ものすごく拒否反応が出るこの「あやとり」というやつ、何がおもしろいのかと思うのだけど、それでも我が子は熱心にやっている。ずっと昔からあるこれは、どういう類の行為なのだろうと、ふと思った。

本記事は、あやとりという遊びについての、ちょっとした考察である。

あやとりの概要

あやとりでは、1本の紐の端と端をつなげて作った輪っかを10指に様々にくぐらせて、特定の紋様を編み上げることを目指す。紋様は通常、現実世界にある何らかの物理的対象(カニ、エッフェル塔、三段梯子など)をモチーフとして、それらを図像的に写し取っている。

時代的考証はあまり進んでいないらしいが、かなり古くからある文化のようで、古代文明において文字以前のコミュニケーションに用いられていたとされる説も、呪術的に使われていたことを示す証拠も存在する。なんとなく日本古来の遊びのようなイメージを持っていたが、むしろ日本では江戸時代以前にあやとりが遊ばれていたことを示す資料は見つかっていないのだとか。

あやとり考~その存在論的定位

一見すると絵を描くことやレゴなどのブロック遊びと近いが、内実はかなり異なっているように思われるあやとりに独自な性質を、幾つか列挙していくことで、なんとなくその相貌を捉えてみたい。

まず、あやとりは世界の模像である。直線と曲線のみで構成された図形的表象が、比喩的に対象物を表す。絵画がときに精神的事物(怒りなど)をモチーフとしたり、強い感情的な表象を与えるのと異なり、あやとりが表象するのは徹底的に可感的でフィジカルな対象物である。

そして、それらの対象を”手わざ”により織りなしていく事が、あやとりの最大の特徴となる。目に見えるものと触覚的なものが総動員され、目的とする紋様が徐々に形作られていく。指と指の間の機序や距離の認知がなければこの行為は完遂しえず、ここにおいて触覚的な知覚は視覚に大いに先行する。あやとりはいわば、われわれの目に見える世界を、物理的な身体である手指と触覚、そして視覚を使って、模像として表すものであると言える。

また、”手わざ”であることの意味にもう少し踏み込んでみよう。絵画やブロックとしてアウトプットされた造形物は、それを造形した主体から離れ、それ自体として独立して存在する外在性を持つ。それに比してあやとりで作られた紋様は、自分が手を離すとするりとほどけて無くなってしまうことから分かるように、それを作る主体から決して離れて存してはおらず、むしろ作る主体と作られる対象との緊密で複雑な関係のもとに成り立っているように思える。われわれの手を構成要素として自ら存立し、その意味で造り手の存在に寄り掛かっていながらも、しかし造り手自身とは全く別の意味内容を確実に表象する存在。あやとりにとって、手指は手段であり、目的(作られたものの一部)でもあり、また質料でもあるのである。われわれの身体自体として、同時にその身体と自己関係しながらカニを表象するものとしての、この創作物の独特なあり方は、考えれば考えるほど奥が深い。

それゆえに、でもあるだろう。出来上がった対象は、指を少し左右に動かすだけで、そのもとあった形からまったく別の新たな形に変貌を遂げるという性質がある。形や場所を刻々と変えていく人間の身体と結ばれていることは、その物が”出来上がり”という終端を持たず、指のたった一指しで相転移がなされる仮構的な存在であることも指示する。

この仮構性の中身をもう少し追っていくと、これが動的なリンクとノードからなるネットワーク構造であることが分かる。各指がノードとなり、指と指の間に張られた糸を支える。ノードの位置もON/OFFもほとんど自由であるが、リンクの総距離が一定(=紐の長さ)に固定されているがゆえ、特定リンクの変化に全ノードが影響を受ける構造になっている。ほとんど自由とはいったが、言わずもがな手指の可動範囲を超えてノードが移動することはできないし、関節構造からも制約を受けるため、あやとりは全体として、実は極めて3次元的な構築物である。3次元的であることはまた、規定性を高める一方で、劇的な相転移を促す側面もある。現在のポジションから、指を裏側に通して距離の離れた糸をつまんで持ってくる等、平面的操作に許される移動を超越している。

こうしてあやとりは、刻々と変化して定まらない性質と、少しの変化が系全体の様相をがらっと変えてしまう高いレバレッジ性/弾力性を内蔵している。この特徴はとても重要なように思われる。ブロック遊びや、指で狐などの形を作って遊ぶいわゆる「指遊び」とあやとりの差異は、ここに凝縮されている。


こうしたあやとりの様々な特徴を、どう理解すればよいだろうか。

主観的な自己であり、同時に可感的な世界でもあるような在り方。なによりもまず、我々の身体そのものが、このような存在ではなかったか。そしてあやとりには更に、綾取られた世界像に対する造り手の身体的介入の可能性と弾力性がある。その身体性に根を張る構造をテコとして、造り手が一度作られた世界像を不断に変えていける可能性が、常に開かれている。

あやとりは、世界の模像であるとともに、われわれが身体を伴って世界に介入する仕方の模像でもあるのではないだろうか。

身体の危機の時代に

ある日突然、新型ウイルスが個々の人間の身体を介して世界の様相を一変させてしまった。それ以前には、世界大戦や経済危機、AIの脅威などの純粋に社会的な現象が、世界に影を落としうる大きなリスクとして理解されていたにも関わらず、である。実際には、社会的な現象であるとともに個々の主体、それも身体の内側に根ざす危機としてのパンデミックが、日常生活に大きな影を落とすことになった。バーチャルな構造や関係としての世界が後退し、身体を持ち各々が独立した人間たちの世界が、改めて前景化してきた2020年ではある。

バーチャルで0/1な関係のネットワークに満たされた社会のなかで、個人的で物理的な身体を媒介とした思考はどちらかというと陰をひそめているように思う。ただ、いま現在われわれが置かれた状況を、身体性を軸に捉えていくことの重要性もある。いくら情報技術が物理空間に染み出したところで物理空間の身体性のまどろっこしさは無くならないし、逆に身体性に結び合わされた表象が、インターネットを介した膨大な情報群よりも簡単に世界の見え方を一変させてしまうポテンシャルを秘めていることもある。

またもう一面のメタファーとして、身体に棲まう実在として微生物やウイルスを捉え直すことは、情報化社会で言われる「繋がり」よりも遥かに複雑で多様な関係の”あや”の存在を照らし出すかもしれない。人間中心主義的な世界観から、植物やウイルスをも含めた生態系全体の相補的で非定立的な寄り掛かりの編み目の世界へと認識をアップデートするためにも、身体を起点とした一筋”縄”ではいかない”紐”解き作業が必要になるだろう。

本論がそれに役立っているとは全く思わないが、少なくとも自分の身の回りに実は溢れかえっている”身体的なもの”を見つめ返す一つのきっかけにはなった。

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相変わらず元気に騒がしくワーワー言いながらあやとりをしている娘を見ながら、この子が生きていく未来は果たしてどんな世界になるのだろうかと思う2020年大晦日であった。

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