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80万年後から現在を"診る"~ウェルズ『タイムマシン』

あるテクストにおいて、そこに当のそのものが書かれて”いない”という事実こそが、そのテクストが最も強く伝えたかったことであるケースは少なくない。

「SF文学の元祖」とも称される本書も、まさにその”不在”の書であって、そしてその不在は「人間進化における科学技術の不在」であった。

幻想小説であり冒険奇譚なる本書の筋書きは、イギリスのとある古民家に集められた一団が、その招待主である"タイム・トラヴェラー"が体験した時間旅行の一部始終を、懐疑の目を向けながら聞くというもの。

そしてなんと、その時間旅行は80万年もの未来への旅である。

リアル世界自体が数年先も見通せないような現代において、SF小説の書き手が殆ど取り扱うことのない壮大な時間軸を、臆する事なくサラッと飛ばせるあたり、1800年代英文学の自由な冒険心を感じる。

80万年のタイムスリップの末、タイム・トラヴェラーが見たのは、知性や肉体機能、果てに性差まで失った未来人(イーロイ人)たちが、緩慢な人口減少で滅びゆく様であった。一時は、極端な進化は頽廃にまで至るのかと推論した彼だが、夕闇の中に地中から這い出す第二の野蛮人種(モーロック人)の登場と、突然のタイムマシンの喪失とに翻弄される。

特に前半部分は、かなり丁寧な言葉運びで読者に現実感/手触り感を持たせる未来描写をしながらも、現代(1870年代イギリス)社会を覆う階級闘争と衰退に対する筆者なりの異議申し立てもうまく織り交ぜながら、小説としてしっかり成立するべく書き切っている。

そして、「不在」である。

80万年後への未来旅行であるのに、そこに科学技術の描写が極端に”無い”のだ。

著者は小説家であると同時にプロの科学ジャーナリストでもあり、本書に続く著書では20世紀の技術進歩を預言者のように当てまくっていることで有名だ。なのに、である。本書においては、タイムマシンより以外に言及されているテクノロジーといえば、マッチ、火薬、鉄の棒、ぐらいに収まる。80万年後の未来に、鉄の棒、である。

思うに、著者が(現代社会への批判の書として)努めて描きたかったのは、人間存在の因縁とそれが積み重なって絡み合った社会であり、それらがピュアに織りなす様相以外に、人間の未来を決める因子は存在しないということだろう。80万年もの時間の旅の過程で、あらゆる文化・文明の枝葉が落ちていくとき、テクノロジーは枝葉の側として捨象される。人間のエグさと社会のエグさこそ、人類が変わらず直視し続けるタスクである、これが著者の取った強い立場であり、彼の「技術論」ではないか。自分には、それが浮き彫りになるように思われる。

本書は、極端な未来に問いかけることで、現在を、人間を、社会を、その変わらぬものを照らし出す書物だ。現在の価値観や問題意識に絡め取られた我々は、過去に上手く問いかけることはできない。それならば、と著者は言うだろう。我々は、未来に問いかければ良い。本書が提示する1つの仮説は、未来に理想や進化や人間精神の完成を求める我々の頭を激しく殴り、現在にその眼差しを引き戻すのを手伝ってくれる。


実は、充実した訳者解説の中で一部答え合わせが出来た。著者は、キャリア後年においてヴェルヌのような世界作家になったのと同時に、エドマンド・バーク思想の息がかかった保守論客としてバーナード・ショーらとやり合うにまで至ったらしい。SFの元祖が、過激な進歩史観や急進主義に(過激に)ストップをかける立場の論客でもあるという話は、何という皮肉だろうかと思う。


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