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《司会、入ります!》 第5話

  司会、入ります! 《第5話》


 ウエディングフェアの会場ホテルから外へ出たとき、美咲の先輩司会者・在原泉の顔つきは、いつも以上に厳しかった。いつも以上ということは……かなり怖い。
 公衆の面前で声を荒らげた経験はおそらく初めてだった美咲も、在原に負けず劣らずの険しさで、口を真一文字に結んでいた。
 マネージャーの七実チカだけが、「ケンカしにきたわけじゃないんだからさー」と苦笑いしている。
「ケンカの種を蒔いたのは誰よ」
「あたしが撒いたわけじゃないもん。撒いたのはサオリ」
「そこに水を与えたら、成長しちゃったわけですよね」
「うまいこと言うじゃん、美咲ちゃん」
「うまいこと言えって誰が言ったの、松乃さん。サオリに好き勝手されて、私は悔し……」
 ふいに在原が足を止めた。そして、「あいつら……!」と苦虫を奥歯でゴリゴリ磨り潰したような声を美しい唇の隙間から漏らしたあと、七センチのハイヒールをものともせず、コンクリートの歩道を駆けだした。
 美咲たちの視線の先────ホテルの案内板の前を重い足取りで歩いているのは、さっきまで「華厳《けごん》の間」にいた、ライバル会社フローラルの司会者たち。だらだらと歩くその後ろ姿に、司会ブースでキビキビと対応していた名残はない。
「ラン、スー、ミキ……!」
 呟いて、チカが顔を歪める。
「それ、昭和のアイドルですよね」
 突っこみどころかと思って気を利かせたつもりが、「いくらあたしでも、こんな場面で冗談は言わないから」と睨まれた。
「蘭! 墨田《すみだ》! 三城ッ!」
 三人に追いついた在原が足を止める。蘭、墨田、三城が文字どおり飛びあがり、振り返った。仁王立ちの在原を前に、揃って顔を引きつらせる。
「在原、さん……っ」
「あんたたち、ちょっと今日はあんまりじゃない?」
 在原が正面から切りこむ。三人は長身の在原に睨みつけられ、逃げることはかなわない。
「サオリが勝手に他社の司会者のオーダーを入れちゃったこと、知ってて放置したわよね?」
「…………っ」
 三人が目を逸らす。知っていましたという顔だ。チッと在原が舌を打つ。
「勝手にオーダーを入れるのはマナー違反! まずはスピカに司会者の予定を訊くべきでしょ? 気づいていたなら止めなさいよ。勝手にねじこむなんて、どうかしてる!」
「……じゃあ、断ればいいじゃないですか」
「断る? あなた、忌み言葉って知ってる? いったん受けたオーダーを、こっちから断れるわけないでしょーが。事情を話して、先方からお断りいただくことは可能。でもそれはスピカの評価を下げるだけじゃなく、ホテル・カリブルヌスの評判にも影響するの。それがわかっていて、こんな真似……卑怯でしょ!」
「……はぁ」
「スピカを飛びだしたことについては、もう問わないし、どうでもいいわ。好きにすればいい。あなたたちがどこに所属しようと、どこで働こうと、私には関係ない。でも、自分たちの会社の代表の横暴を止めるくらいの常識は、持ってほしい」
「……それ、私たちの仕事ですか?」
「……────は?」
「だから、私たちには関係ないですよね?」
 ヤバイ、とチカが口走る。見れば在原が右拳を固めていて、ヒーッと美咲は震えあがった。まさかあれをラン・スー・ミキの顔面に……ということは、しないだろうと思っていたら。
「グーがパーに変わる前に、止めるよっ!」
「えっ! まさかの平手打ちですかっ?」
 変わるのか、やっぱり!
 駆けだしたチカを追って、美咲も慌ててダッシュした。在原の迫力に呑まれた三人は、絶句したまま棒立ちだ。
 在原が肘を引いた。弓がしなるような動きに「待った!」と叫んだチカが、在原の腕にしがみつく。美咲も在原の前に回り込み、両掌を向けて制した。
「在原さん、落ちついてください! 私のことでしたら大丈夫です! いっぱいトークを勉強して、本番は絶対にミスのないよう頑張りますからっ!」
「あなたのことを言ってるんじゃないわよ! ケンカの売り方が汚いって言ってんの!」
「はいっ! でも……っ」
「……あの〜」
 スピカ側のテンションとは対極にある静けさで、フローラル側が口を挟んだ。キッと在原が睨み返す。
「なによ、蘭。言いたいことがあるなら、はっきり言いなさい」
 蘭と呼ばれた女性が、困ったように首を捻り、「だから……」と弁解の言葉を探している。
「私たちは、普通に仕事をしたいだけです」
 そうです、と墨田と三城も賛同する。ふたりの気持ちを、センターの蘭が代弁する。
「私、平日は他で働いているので……いちいち両家に合わせた台本を作る時間はありません。墨田は劇団に入っていて毎日練習があるから、私以上に忙しいし、三城ちゃんは、デビュー前の講習で習ったことだけで充分やれる実力があるのに、どうして毎回変化をつけろって言われるのか……って、私と同じ不満を持っています」
 在原が露骨に眉を寄せた。それをチラチラと目の端で確認しながら、墨田が心情を吐露する。
「いつもチカさんは、両家の内容に合わせたコメントを文章に起こしなさいとか、もっと語彙を増やしなさいとか、先輩の本番を見学しなさいとか言うじゃないですか。それ、ものすごく負担です」
 負担? ……と、チカが声を詰まらせる前で、他のふたりが遠慮なく「そうそう」と頷いた。
「私たち、週末だけ司会に入って、ちょっとだけ生活費の足しにできればいいんです」
「副業として司会をやっているだけなのに、延々レベルアップを求められて……すごく疲れます」
「平日もコメントの勉強をしなさいとか言われても、そんな時間はありません。土日勤務っていう話だったから始めたのに、はっきり言って契約違反です」
 だよね、と頷きあう三人に、釈然としない顔でチカが反論する。
「違反じゃないよ。どんな仕事も勉強は必要でしょ? ご両家は毎回、変わるんだよ? 同じ言葉なんて、あり得ないでしょうが。新しい言葉や表現力を、どんどん身につけていかないと……」
「チカさんはそうおっしゃいますけど、サオリ社長は逆です。ご両家は毎回変わるから、同じ言葉で問題ない。大事なのはミスをしないことだって、いつも言ってます」
 はぁ? と声を裏返したのは、在原だ。
「同じ言葉を使い回せってこと? 基本的なセレモニー部分はある程度同じになるのは当り前としても、同じ言葉で問題ないっていう考え方では、進歩しないでしょうが」
「進歩って、必要ですか?」
 これには美咲が「え?」と疑問を漏らしてしまった。新人の美咲が非難するような声を発したのが気にくわなかったのか、三城にキッと睨まれてしまった。
「日々勉強して、挑戦して……って、無理です。そんな時間とれません。平日の仕事だけでクタクタなのに」
「だけど副業しないと、東京では生活できない。だからお芝居の練習の合間に講習を受けて、司会で少しでも稼げるように頑張りました。個人的には、これで充分です。これ以上のことは望んでいません」
「私も同感です。ちゃんと講習料も払って、一定ラインはクリアしているわけですから、フォーマットに従ってミスなくやればいいと思います」
「だから、サオリのやり方のほうが自分たちには合っている、そういうこと?」
 在原の問いに三人が俯き、口を噤む。
「松乃さんを陥れるような真似をしても、構わないってこと?」
 それは……と墨田が視線を泳がせる。「私たちがやったことじゃないし」と、三城がボソボソ弁解する。仕事に対する姿勢もだが、組織としての団結力も、必要としていない印象を受けた。
 そういうドライな考え方も実際にあって、もしかしたらそちらのほうが正しいのかもしれない。……かもしれないが、在原の仕事ぶりを見て再度司会を目指そうと思い、チカの言葉のひとつひとつに心を動かされてここにいる美咲にしてみれば、仕事に対しても人に対しても、十人いたら十とおりの心を込めるのが礼儀だと思います! と言い返したくなる。……言わないけれど。
「あなたたちの所属しているフローラルの代表が、こういう子供っぽい嫌がらせをしたことについては、どう思ってるの? なによりご両家に対して、失礼だと思わない?」
 どう思うもなにも、サオリ社長がやりそうなことだなーって思うだけです……と。
 それは社長がしたことだから、社長に訊いてください……と。
 とにかく私たちは、週末にちょっと稼ぎたいだけですから……と。
 この仕事に対するプライドはないの? と、縋るようにチカが言っても、「ないです」と、悲しいほど手応えがない。
「仕事で得られる喜びとか、やり甲斐とか、欲しくない?」
「少しは欲しいですけど……、進歩とか勉強ばかり求められると、だんだん面倒くさくなるし……」
 ついに在原が爆発した。
「あなたたち、婚礼司会をなんだと思ってるのよッ!」
 怒りが収まらない在原に、蘭が顔を背け、ポツリと言った。
「別に、普通の仕事じゃないですか?」

     

「ただいま、マリアさん」
 玄関を閉めて、施錠して、パンプスを脱ぎ、洗面所で手を洗う。そして美咲はジャケットを脱ぎ、ベッドで待っている大きなぬいぐるみ猫の「マリア」の元へ直行した。
 ぎゅーっと力いっぱい抱きしめると、自然に「癒やされる〜」と声が漏れた。このフカフカは、まさに最強。
 最寄り駅で別れる際、チカは肩も気持ちも落としていた。マネージャー業って難しいっす〜と、珍しく弱音を零して。それを在原が隣で聞きながら、「チカのやり方は間違ってない!」と、肩を抱いて励ましていたけれど。
 ……でも。
 心が弱っているときには、楽なほうへ流れてしまいたいと思うことは、美咲にもある。
 新しいことへの挑戦を苦痛に感じるほど、心がくたびれているときもある。
 そんなときに、ちょっとした気持ちのすれ違いが生じたりすると、もう話すのも苦痛になって、投げやりになって、会話を諦めてしまうときがある。
 フローラルに移籍したメンバーは、頑張ることに疲れたのかもしれない。でも「テンプレなセリフ」で「うまくこなす」よう指導されたら……。
「楽しい仕事……とは、ちょっと……違う、かな」
 マリアを抱っこしたまま、バフッとベッドに仰向けに倒れた。
「でも私は、実際に本番を経験しているわけじゃないから……本番を重ねると変わっちゃうのかな、気持ちが」
 うーん……と悩みながらマリアの頭頂部に鼻を埋めたとき、モバイルが鳴った。
 開いてみれば在原だ。文字よりトークの在原らしく、通話を要求されている。ベッドの端に座り直し、モバイルを手にとり、だけどマリアは抱いたままで「はい」と応じた。
『あ、松乃さん?  あのね、今日のことだけど』
 まだ声にイライラが燻っている。マリアを抱っこする手が、ちょっと汗ばむ。『頑張りすぎずに、頑張ろうね』
「……はい?」
『サオリたちがスピカを飛びだしたのは、チカと私が、彼女たちを守れなかったせい。信頼に足る器に……、それだけの器に、私たちがなれなかったせい』
「在原さん、酔ってますか?」
『少しね。気持ちを軽くしたくて。だから、いまの私は口も軽いの』
 正直すぎて顔が弛む。微笑みの気配が伝わったのか、あのね……と、在原らしからぬ儚げな前置きが耳に届いた。
『……松乃さんは、つらくなる前に、抱えこまずに話してね。つらいときに、頑張れなんてプレッシャーかけないから。疲れたときは、ちゃんと弱音を吐いてほしい。あなたの気持ちを言葉にして、打ち明けてほしい。私……察するのがヘタだから』
「ヘタじゃありません。在原さんは、ゲストの気持ちを汲む達人です」
 ありがと、と返ってきた声は優しすぎて、やっぱり在原らしくない。ラン・スー・ミキに面と向かってあれだけ言われ、さすがにショックだったのだろう。あの場にいただけの美咲だって、いまだに気まずさを引きずっている。
 彼女たちは悪くない。ただ、そういう環境にいるだけ。心から、そう思うから。
『……言ってさえくれれば、気づけるから。どれだけでも相談に乗るから。迷ったときは一緒に考えよう。人が喜んでくれるかどうか。そして……』
 ふぅ、と一呼吸置いて、在原がぽつりと言った。
『自分が、幸せかどうか』
 照れが混じったような口調で、在原が続ける。
『言葉って、人を泣かせることも怒らせることもできる。でも私は、言葉で笑顔を共有したいの。喜びで埋め尽くしたいの。幸せな言葉を紡ぎたいの。それが叶う婚礼司会は、私の幸せであり……誇りなの』
 じゃ、と短く言って、在原が通話を終了した。
 美咲はモバイルをマリアの耳に当て、「聞こえた?」と目を細めた。
 仕事との距離感は人それぞれだ。価値も熱量も、人それぞれ。そんな中で、同じ目標を目指す人たちと巡り会えたらラッキーだし、一緒に働けたら楽しいし、頑張り甲斐も大きく膨れあがるというもの。
「誇り……か」
 誇らしさを実感できるまでには、まだまだ道のりは遠いけれど、言葉が持つエネルギーなら知っているし、信じている。在原の言葉の力も凄まじく強いと敬服する。さっきの言葉たちに、すっかり魅了されてしまった。
「笑顔へ導きたい、喜びで埋め尽くしたい、幸せな言葉を紡ぎたい……のは、私もですよ、在原先輩」
 人が喜んでくれるかどうか。自分が幸せでいられるかどうか。
 人の喜びと、自分の幸せ。このふたつは、たぶん一本で繋がっている。
 だから、努力しよう。自分の夢は、自分で叶えよう。
 美咲の努力は、大好きなチカと在原を、笑顔にできるはずだから。
「本番、絶対に成功させるからね、マリアさん」
 自分の目指す方向が見えて、やっと頑張れそうな気がしたのに。
 ミギャア、と潰れたような声で失笑された気がして、ちょっとだけヘコんだ。

     ◆◆◆

 ハプニングとはいえ、司会デビューの日が決まった。
 それが結果的にラッキーなのか、それとも悪夢に転じるかは……。
「私の努力次第ってことよね」
 一晩明けて、雨の月曜。
 なんとなく頭が重くてスッキリしないのは、昨日のブライダルフェアで感情を揺さぶられすぎたせいかもしれない。
 以前世話になった五十風サオリに、思いがけず……じゃなくて、思っていた以上に辛辣な言葉を投げつけられ、いま美咲が所属しているMCスピカとの関係性をも目の当たりにして、美咲自身にも大きな難題が降りかかってきて、体より心が疲れたもよう。
「でも、決まったからには前に進まなきゃ。ご両家のためにも、前向き、前向き!」
 三毛猫のぬいぐるみ・マリアをギュッと抱きしめ、美咲は自分自身を励ますべく、「よし」と弾みをつけてベッドから上半身を起こした。だが次の瞬間には、「でも……」と弱音が漏れてしまう。
「あと二カ月しかないのに、本当に大丈夫かな」
 不安を、わざわざ声という「音」にして耳から取りこんでしまったら、急に体が重くなった。こうなるともう不安でたまらない。夕べは奮い立たせていたはずの勇気が、たちまち萎《しぼ》む。
 萎みついでにもう少しだけ零すなら、憧れの職業だからこそ失敗したくないのだ。
 そのためにも、しっかりトレーニングする時間を確保したかった。これで万全と胸を張れるほど準備して、揺るぎない自信をつけてから、堂々と本番に望みたかった。それであれば、こんなふうに恐れることもなかっただろう。それどころか早く新郎新婦に会いたくて、本番を迎えたくて、うずうずしていたに違いない。
 それなのにまさか、こんな形でデビューが決定してしまうとは。
 正直プレッシャーでしかない。頑張りたいという気持ちは確実にあるのに、不安に押し潰されて動けない。
 ふと視線を落とせば、マリアを抱く自分の指先が小刻みに震えていて……美咲は慌てて視線を逸らした。
「怖い……よね」
 口にして、ギクリとした。マイナス発言は不安のループを招くだけだから、こんなときは絶対に口にすべきじゃない。声に出すなら「できる」「やれる」「楽しみ」などなど。在原による講習を受ける中で学びとった、「幸せを呼びこむスリーワード」だ。
 そもそもウェディング業界では、忌み言葉やうしろ向きの発言はNG。プロの司会者であれば本番前のみならず、普段から意識すべき姿勢であり、心構えだと思う。
 でも──────。
 それさえも、いまの美咲には荷が重い。
「はぁ……」
 美咲はベッドに座ったまま、膝に抱えたマリアの頭頂部に顔を埋めた。真ん丸だったマリアが歪な楕円形になって潰れている。
「落ちこんでいるヒマがあったら、コメントを考えなきゃ。心が晴れるような……なにか」
 こんなとき在原泉先輩なら、きっとこう言う。『するかどうかもわからないミスに怯えて思考停止することほど、非生産的な時間はないわ。あきらかに無駄でしょ?』と。
 じつは昨夜の通話で、在原から「宿題」を出されたのだ。水曜のレッスンまでに、夏のコメントをいくつか考えておきなさい、と。
 夏といえば、暑い。……ダメだ、暑苦しい。滴り落ちる汗を連想してしまう。これでは気持ちが晴れるどころか、滅入る。
 よし! と美咲は背筋を伸ばした。そして思いつくかぎりの「夏の連想」を声にした。
「夏、海、青空、入道雲、太陽、ひまわり……」
 うん、いい調子。心も少し浮上してきた……かも。
「夏祭り、浴衣、金魚すくい、綿あめ、盆踊り、花火……七夕」
 七夕といえば、七月七日だ。婚礼司会者として、美咲が初めてマイクを握る日。
 せっかくなら、七夕にちなんだコメントを入れたい。おそらく新郎新婦も、それを期待していると思うから。
 美咲は目を閉じ、新郎新婦の入場シーンを瞼の裏に描いてみた。
 閉じた入場扉の左右にスタッフがスタンバイし、会場内が真っ暗になる。パーティーのホールアルバイト経験のおかげで、このあたりは容易にイメージできる。
 入場曲もしくは司会者どちらかの「きっかけ」が、音楽もしくは声で会場内に響き渡り、入場扉のセンターにスポットライトがあたる。
 そのドアオープンの瞬間にふさわしい、七夕のコメントといえば……。
「満点に輝く星空のもと、織り姫と彦星が、ご入場です!」
 笑顔で言って、ビシッと空中に片手を差し伸べた、次の瞬間。
「却下──ッ!」
 恥ずかしさのあまり、美咲はバフンッとマリアの腹に顔を埋めた。
 なぜならあのカップルは、年に一度しか会えない運命。遠く離れている織り姫と彦星は、ウェディング・シーンには、まったくもってふさわしくない!
 それに当日、もし雨でも降ろうものなら、翌年まで会えないという悲しい運命まで連想させる。
 単身赴任などで別居前提の新郎新婦なら、遠くにいても愛は永遠……とかなんとか、織り姫と彦星を登場させるのはアリかもしれない。でもそうじゃないなら、いくら七夕といえども、織り姫と彦星の手は借りられない。
「在原さんに、雷を落とされるところだった」
 美咲はブルブルと横に首を振り、遠距離カップルには速やかにご退場いただいた。
「あー、でも、だったらどうしよう。七夕の日を飾る素敵な言葉、なにか……」
 ひとりでは考えがまとまらない。こんなときは。
 美咲はチラリと、ベッド横の目覚まし時計に目をやった。時刻は十時。
 朝ご飯にしては遅めだし、お昼にしては早すぎる。そう、こんなときは。
「……パン、買いに行こ」
 美咲はベッドから飛び降りた。マンションの隣のコンビニで済ませてもいいけれど、気分転換に駅前まで歩けば、なにかイメージが湧くかもしれない。
 ぺったんこになったマリアの脇腹をぽふぽふと叩いて元の形に戻し、枕元に置き、「ちょっと出かけてくるね」と声をかけ、薄手のショールを軽く巻いて外へ出た。

 駅ビル一階のベーカリーで総菜パンをふたつ買い、すぐにマンションへ戻る予定だった足を、北口ビルへと延ばした理由は、三階の雑貨店を訪ねるため。
 ショップスタッフの川島に、会いたくて。
 あれは、彼と別れて三日目の夜だった。ひとりでいることに耐えられなくなった美咲は、閉店間際の雑貨店を訪ねたのだった。
 ぬいぐるみ猫・マリアと目が合って、抱っこしたら離れがたくて、涙が流れて……マリアの上にポタリと落ちて。汚しちゃったから……と理由をつけて買おうとして、でも所持資金が足りなくて、大人げなく途方に暮れていた、あの日。
 取り置きをお願いしたら、「いますぐにマリアさんが必要なんですよね」と、見ず知らずの客のために……美咲のために自分のサイフを取りだして、立て替えてくれたのが川島だった。
 その川島に、きちんと報告したかった。
 ついに司会デビューが決まりましたと笑顔で報告できれば、二カ月後への不安も、期待に変えられるかもしれない。
 平日の午前中のせいか、どこか閑散としている北口ビルのエスカレーターに乗り、三階へ到着したとき。
「……あれ?」
 なにか、ようすが違う。
 エスカレーターを降りて、すぐ左手。いつもなら和小物や洒落たステーショナリーが美しく陳列されているはずの棚には、なにも並んでいなかった。
 川島は、いた。いつものように紺色のエプロンをつけ、ショートのボブをカチューシャでまとめ、テキパキと手を動かしていた。黙々と続けているのは……商品の梱包作業。
「川島さんっ」
 思わず声を上げてしまった。川島が顔を起こし、美咲と知って目を細める。
 せっかく川島が、店内のあちこちに置かれた段ボール箱を回避して美咲の前まで来てくれて、「こんにちは」と挨拶してくれたのに。
「お久しぶりです、松乃さん。マリアさんは元気ですか?」
「……っ」
 美咲は返事ができなかった。どうしても笑顔になれなかった。
 見ただけでわかってしまった店内の状況に、いまにも涙が零れそうで、口を開くことができなかった。開いたら、「どうして?」とか「なぜ?」とか、「いかないで」とか……マイナス発言ばかりが次から次へと溢れるに違いないから。
 泣くのを我慢している美咲の肩に、川島がそっと手を載せ、優しく揺らしてくれる。
「上からの命令で、他言厳禁だったんです。閉店の噂が流れると、本店の売り上げにも影響がでるからって」
「……はい」
「営業は昨日まででした。日曜で、切りがいいから。今日をもって撤退ですが、商品は全部本店へ移動させるから、閉店セールも出来ませんでした」
「……はい」
「私、これを機に退職するんです。だから今日お会いできて、よかったです」
 はい、と返したけれど、届いたかどうか。
 パタパタッと涙が落ちた。慌てて川島がエプロンの前ポケットに手を差しこみ、「あ、ハンカチがない」と言ったかと思うとレジへ走り、スタッフと二言三言話をして、なにかを手にして戻ってきた。
 どうぞと渡されたのは、小さな招き猫のワッペンが縫いつけられた、ガーゼのハンカチ。「おめでとう」と印刷された熨斗《のし》が巻かれているけれど……。
「これ、梱包作業中にパッケージを破損しちゃったんです。熨斗のところを破いちゃって。買い取ったばかりで未使用ですから、よかったら」
 使ってと言われたときにはもう、ハンカチは美咲の頬に押し当てられていた。
「これでもう、松乃さんちの招き猫になりました」
「川島さん……っ」
 感情がこみあげる。なにか言いたいのに、涙で声が詰まってしまう。
 でも、どうしてもいま彼女に伝えたいことがある。美咲は声を振り絞った。
「私、司会デビューが決まりました……!」
 ええっ! と驚いた川島の表情が華やぐ。「ほんとですか? いつ?」と飛び跳ねるようにして訊かれ、「七月七日、七夕です」と返した。
「わぁ、素敵! じゃあ結婚するカップルは、さながら織り姫と彦星ですね」
「私もそう思ったんすけど、でも織り姫と彦星は、年に一度しか会えない運命なので、ウェディングにはふさわしくないかも……って」
 あら、と目を丸くした川島に、「さすがプロですね」と感心され、少し心が和らいだ。
 美咲は手の中でハンカチを握りしめ、川島の優しさにも背を押されて、少し不安を吐きださせてもらった。
 まだ勉強中の身だったのに、ハプニングで急に決まってしまったこと。本番まであまり時間がないこと。明後日には先輩司会者のレッスンがあるのに、いいコメントが用意できていないこと……などなど。
 すると、川島が言った。「でも七夕は外せませんよね。だとしたら、天の川?」と。
 そう言って足元の段ボールから取りだしたのは、片手で持てるサイズの天球儀。群青色のそこには、学校で習った星や星座とともに、天の川も描かれている。それを指さした川島が、あら〜と眉をハの字にする。
「みごとに空を二分してる。だったら、天の川も使えませんね」
 苦笑する川島に、だが美咲は、気がつけばプラスの言葉を返していた。
「天の川さえものともしない、強い愛情で結ばれたふたり……」
 口にして、ハッとした。川島も、「うん!」と賛同の驚きをくれる。
「天の川を逆手にとって、ふたりの愛の強さを表現するの、アリですね」
「ですよね、川島さん! この方向性、アリですよね!」
 きゃーっと思わずハイタッチ。作業中のスタッフたちの視線を浴びてしまい、慌てて口を噤んだものの、突破口を発見したかのようで、嬉しくてたまらない。
「七月七日は、愛の強さを証明する日。永遠に続く不変の愛の日……ですよね、川島さん」
 はい、と大きく頷いてくれた川島の背後で、「バックヤード行ってきまーす」と、スタッフが通路へ足早に消える。
 長居しすぎたことを反省し、美咲は姿勢を正し、両手をお腹の下で揃えた。
「いつも心の支えでいてくださったこと、励ましてくださったこと、応援してくださったこと、本当に……ありがとうございました。川島さんのおかげで、頑張れそうです。どうか川島さんも、新天地で頑張ってください」
 最後は涙声になってしまったけれど。
 それでも笑顔で発した声は、心からの感謝で輝いていたと思いたい。
「ひとつお願いがあります、松乃さん」
「……はい、なんでしょう」
「私が結婚するときは、司会、お願いできますか?」
 え? と目を見開く美咲に、川島が恥ずかしそうに首を竦める。
「たぶん、今年のクリスマスごろになると思います。夏までには、どこかの会場に決めようねって、彼と相談中なんです。だから」
 そのときは、指名してもいいですか……?

 我慢していた涙が、一気にあふれた。
 喜んでお引き受けしますと返したいのに、感激しすぎて声が出ない。それまでにもっと勉強しますと伝えたいのに、ありがたくて、嬉しくて、涙しか出ない。
 本番では絶対泣かないようにします、約束しますと、泣きながら誓ったら。
 右の小指を差しだされ、「約束ですよ」と笑われた。

   第6話へ続く https://note.com/jin_kizuki/n/nfc07fcc7e1cc →

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