先人たちのやったことの結果を振り返る日々 なぜこうしなかったんだろうとか失敗の検証のたいせつさとその意味
はじめに
新しく就いたしごとで、過去にたずさわった人々の実験ノートやレポート類をたんねんにチェックする作業をすすめている。失敗も忠実に記されている。じつはとても多くの気づきがある。
そして当時なぜ上司や先輩は、的確な指示を出さなかったのか、あるいは出せなかったのか。あえて失敗覚悟で身につけさせようとしたのか。いまになっていろいろ思う。のちの時代にあれこれいうのは卑怯かもしれないし、その点についてはお許し願いたい。それを承知のうえでのつぶやき。
過去の失敗の資産
じつはこのしごと、内容はふれられないが積み重ね。わたしは学位をもち対象分野の経験があり、どちらかというと指導的立場にいるけれど、現場のようすを知るうえでこの作業が必要。過去にたずさわった方々の作業のようすを知ることが何よりだいじ。
過去30年分ほどの内容を記す実験ノートやレポート類を見なおしつつ、仮想実験しながらその当時のようすを思い描いている。
これがなかなか興味深いしありがたい。なるほどここが苦労のポイントかとか、そこが乗り越えられずに断念したんだろうな、きっととか。とくに新任者や初心者が指導者とともに悩み、苦労したようすが見えてくる。
初心者は壮絶。きっとわたしたちが思っている以上に本人たちにとってはのりこえる壁が立ちはだかり大層にみえているにちがいない。
この分野にはいっていけるかどうか、そして乗り越えていけるだろうかと一心に努力していたんだろうなと目をとおすこちらまで目が潤んでくるほどの想いになってくる。
なかにはおなじ実験操作を7度失敗。そのたびごとにどの部分にミスの原因があったのかめだつ色のペンでしっかりつきとめ書き記している。これはすばらしい。わたしは目を通しつつホウと思わず声をあげた。この方はのちのレポートによい業績をのこしている。
絵文字やつぶやきがいっしょに走り書きでのこっている。ここにホンネが如実にあらわれている。悲喜こもごも。読みつつもいっしょに一喜一憂する。
いずれも与えられたしごとに報いようとしている。じつにけなげ、そしてひたむき。いいなあ。それなりにスキルや能力のちがいがあるのはしかたない。けんめいに自分を成長させようと努力を重ねている。でもこのプロセスなくしてはその先がないのはたしか。
実験をやりながら
上で記した作業、じつはわたし自身が行っている現在の実験操作のあいまに自主的にすすめている。多くの仕事は3つほど同時にすすめる。ときにはそれにくわえて手をうごかしつつ打ち合わせをする。このほうが効率がいい。
ひとつはわたし自身が集中して取り組むべき内容。どう変化するかわからない、そのときどきで臨機応変に対応したり、途中で転換する判断したりが必要。のこりふたつのしごとはコンピュータや自動機械に支援をもらいつつおこなっている。統括するのはわたし。
なにもむずかしいこととはいえないだろう。和傘の上にだるまを乗せつつまわしながら、鼻のうえにとじた扇子を立てて、一輪車にのっているという曲芸をしているわけではない(これこそ尊敬すべき一芸)。
ルンバに掃除してもらいつつ、オーブンレンジの自動調理をおこないながら、リモートワークに参加しているような感じ。こういったことはどこの家や職場でもありそう。わたしはコンビニの方々の多岐にわたる一連の仕事に敬意を払いたいと思う。どうしてあんなに時給が安いのかふしぎなぐらい。
したがってわたしたちが従事する生命科学の実験・研究にしてもやること自体大差ない。料理のアレンジのほうが難しいなあと感じるほど。
おわりに
話がずいぶんそれてしまったが、過去の資産とはなにも優れた業績にかぎらない。
こうした失敗をふくめてやってきた「苦労の歴史」に、こののちに対処すべきものごとの本質が隠れているはずだし、目をとおすとたちむかう気力が湧いてくる。そうして解けた真理はわりと整然としてシンプルなことが多い。
「先人たちの苦労の上にわたしたちがいる。」という言葉。もしかしたらおこがましいのかもしれない。むしろ苦労をこれからあじわうことになるぞという合図に対して、「勇気をもらえる糧を提供してくださっているありがたい方々のサポート」とでもいいたい。
わたし自身、後進の方々の縁の下の力持ち(体力はないが)にすこしでもこれからなれるようにしたい。
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