さかなのしっぽ・カステラの紙のざらめ・しゃもじについた米つぶはなぜうまいのか
(2024.4.22加筆)
はじめに
あきらかに世間一般のヒトとは食の好みがひとあじちがう。それに気づいたのは四畳半賄いつきの下宿住まいの学生時代。なぜか親からそこをあてがわれた。
そこでの食事には感謝しかない。じつにたらふく食べさせてもらえた。ここにいるあいだはたべものに困ったことはほぼなかった。たべすぎで2階のじぶんのへやに這ってのぼったこと以外は。
その前後でわたしの食習慣がさだまった気がする。
きょうはそんな話。
(タイトルヘッドの写真はもとの家のレモンの花)
下宿生活で
大学への進学がきまり、さっそくわたしの親は知りあいのつてをたよりにあらたな生活の場を電話であっさりきめてしまった。わたしの意向など聞かず、ほぼながれでそうなった。なにも世間など知らないのでまあしかたない、おそらくなんとかなるだろうとそんな感じ。
たずねるまでどんなところとはつゆ知らず。すでに準備されていたわたしの夕食におどろいた。量がはんぱでない。わたしとて高校では運動部。やせのわりにたくさん食べるほうだった。そうでないと電池がきれたようにうごけなくなる。
だがちがう。その日から6年間ものあいだお世話になった下宿のおばさんはわたしを「むすこがふえた。」とニコニコと出迎えていただけた。親とのあいさつやみやげの受けわたしもそこそこに、ほどなく夕食をあてがわれた。
いつも食事は上の2階にすむおふたりの勤め人とわたしをふくめた学生3人。さきに席についていた皆にあたまをさげつつさっそく食事。脇にこんな大きなのがあるんだというほどのびっくりサイズの炊飯釜。
山盛りごはん
ヒトが牛か馬のようにこんなにたべるんだと知ったのはこのとき。まさかじぶんの分はそんな量のはずはない、うん、たしかにそうだろうと席についたがその考えは一瞬にして吹き飛んだ。高校時代に食べたはずの最大量の食事よりも多い。どんぶりに山盛りのごはん。
それにおかず2品に汁物。食卓が料理の皿であふれんばかり。みなさんもくもくとひたすら目のまえにだされた食事とたたかっているを口にしている。
その初日のおどろきは半端でなかった。これから平日の朝夕に何年間もつづく。「お残しはゆるしません。」(どこかで聞いたような…。)がおばさんのくちぐせとのちに知る。ひと段落つくとたばこを一服くゆらせる貫禄の方だった。
そんななかで
ある日。魚がメインのおかずの日。切り身なのですきなものをとっていいと配膳まえの調理台にならんでいた。わたしはすかさずしっぽをふくむ部分を手もとにひきよせた。これはわたしの好物。下宿のおばさんはそんなわたしを見て、「あらっ、お頭のところをとりなさいよ、せっかくの1番のりなんだから。」とおっしゃる。
「じつは…。」とわたしは理由を説明する。おばさんは大笑い。「そんな下宿生ははじめて。」と言う。はしをつけるようすをそばでニコニコ顔でながめていた。
それ以来、さかなのおかずのときにはわたしにはいつもしっぽの部分があてがわれた。
ほかにも
こうした「はしっこ」が何かと好み。食パンならば耳の部分や一斤の端っこの茶色でおおわれた両端の部分。サンドイッチを作るときに出る具材がすこしずつこびりついた耳は至高の食べものとゆずれない。
それからカステラならば本体部分よりも覆っているパラフィン紙についたおこげのザラメがまぶされた茶色い部分。カステラ本体をおとうとに食べてもらい、わたしはこの部分を交換条件でもらい食べていたほど。そんなわたしを見て親はわらっていた。
おわりに
けさもそうだった。しゃもじについたごはんつぶ。これはなぜか茶碗にもられた米の集団とはひと味もふた味もちがう気がする。なぜおいしいのか。いまもってなぞ。
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