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靴を食べるチャップリンの演技へ感じる感情の起伏の大きさ


はじめに

 ヒトという生き物はどんなことに興味を示すのだろう。たとえば、とるに足らないごくふつうの結果しかないと思えるところに、予想だにしないことが起きたときなどだろうか。

そんなときに笑いが起き、感嘆の声が上がる。作り話なら容易だ。たとえば重いはずの象が空を軽々と飛んだり、海を進むはずの船が宇宙船になったり。

現実であってもたとえば金属の塊に見える(現実にはちがうが)飛行機が空を飛んでいるようすは、よく考えてみると変だし原理を知りたくなってくる。わたしは科学者だがその立場でもやはりおもしろいと思う。

さて、人間に目を向けよう。よく観察しているとどこかおもしろく、それでいてかなしい。このギャップの要素をあわせ持てる映画やドラマの脚本、そして演技ができたらおもしろいだろうしヒットしそう。実際にそうだなと思える作品が浮かんでくる。


ヒトという生き物は・・・

 印象深い映画のシーンがある。いまから100年近く前の作品。頭を離れないのは凝ったカットやなんかではなく至ってシンプルな場面。言葉は発しないが、空腹のあまり靴をごくふつうに食べようとするシーン。

演じるチャップリンがコメディーとして描いていて演技に笑いつつも、そこには哀しみがつねに漂っている。映画が発明されてそれほどたたないうちに、これほどまで感情に起伏を与えられる作品が登場するなんて。

落語でもそうかも。名作にはその要素が豊富。それを話術で聴かせてもらえる。長屋住まいの人々のくらしや世界にどっぷりひたりつつ、あじわったあとに拍手で称賛する。人間のペーソスを笑いの中に溶かし込む技能が話し手にもとめられる。

それが鼻については元も子もない。あくまでも自然に聴衆を引きつける魅力でないと。一朝一夕でできるものではないだろうし、芸の奥深さかもしれない。

一方で、ごく平凡に暮らす人々を撮しだすテレビ番組がある。こうした場面にもそれを感じることがある。ここへ登場するヒトたちはごく日常を素のままに暮らす。

撮影対象となる方々と打ち合わせすらしないらしい。その日常の姿をありのままに撮影しているに過ぎない。でもかっちりつくられたドラマ以上に印象を残し、こころが揺さぶられる。それを撮影現場で引き出せる出演者もすごい。


平坦なままでは

 日常をつまらないと思うか、今日はこんなことがあったと書き残すか。わたしは手が不自由でペンでもって字をほとんど書けないが、指先でPCのボタンは押せる。早起きしつつ食事を済ませて、ほっとした時間に記事を入力するぐらいは何とかなる。

こんなには書けないかもなと思いつつはじめたnoteだったが、なんとかつづき、記事はようやく100を迎える。


おわりに

 たんたんと暮らしのなかで感情に起伏が生じるのはどんなときだろう。わたしはざわつく程度のことが起きたときにnoteに記事を書こうとしている。日々の生活の中に面白みを見つけられると幸い。楽譜の音符をひとつ新たにくわえて自分なりの音楽を紡ぐよう。

人間も自然もおもしろい。対象をしぼらずにアンテナをはりつつ接するとおもしろさに気づける。

森羅万象の観察をとおして感情にさざなみが起き、何気ない日々でもそれなりにあじわえるのではないか。せっかくこの世の中に生きているのだからもったいない。


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