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しがない地方国立大学院生3人組のOA化黎明(れいめい)期の顛末記


はじめに

 それはとつぜん現れた。すくなくともわたしにはそう見えた。大学研究室の急激なOA化のことだ。もちろんオフィスオートメーションの略でOA。

はたしてこの語が昭和の化石語かはさておき、半径20mほどの小さなせかいの些末で急激なOA化の顛末と掃き捨てていただきたい。

支店長のむすこが…

 ときは昭和(すでにふたつ前の元号か)の末期、地方大学の古ぼけた理系研究室のタコ部屋のごとき一室。わたしをふくめた3人の同学年の大学院生が机・いすをこの研究室のぬしである教授からあてがわれた。

日をおかず、3人のうちのひとりが重そうな段ボールをかかえてはいってきた。ときはまだ桜の花が散りかける頃、サークルへの新入生勧誘の活発な時期。

にもつをかかえたコイツは父親が地方銀行支店長で、車(といっても部品をあつめ組み立てた改造車、いつもエンジン部品を研究室でみがいていた)とバイクの両方を乗りまわすブンブン野郎。

さらにその大きな段ボールを見つめつつ「手伝おうか?」と気をきかせるもうひとりは、雑貨屋のむすこ。「なぜ小錦(かつての大相撲の元大関)は自分に似ているのだろうか。」と真顔で相談を受けた。

そして不肖ながらわたくし。4年生での研究室生活の疲れをいやすリハビリ生活をここでむかえていた。わたしはもうひとつの両がかえほどの段ボールをブンブン野郎の車からタコ部屋に運び入れた。

この3人の長男坊があらわすOA化の顛末。

段ボールのなかからは…

 ブンブンはおもむろに段ボール(大)から、学生たちの部屋に似つかわしくないものをとりだした。N88‐BASIC(86)で稼働するパーソナルコンピュータPC9801である。自称小錦とわたしはそれをじっくり半径1メートルの外からながめ、そして顔を見あわせた。

「買ったの?」とわたし。「そう。ためたバイト代、ぜ~んぶふっとんだ。」とブンブン。わたしが運んだ段ボール(中)にはこれもNEC純正のドットインパクトプリンター、ならびにコード類などなど。

「これ、つなげるの?」とこんどもわたし。「うん、かんたん。あっというまに動くようになる…はず。」といいつつ、さっそく机まわりのかたづけをはじめる。プリンターが思いのほか大きかったと、さらにどこからか古机をタコ部屋にもちこもうと、パズルのごときせまい部屋内での大移動がはじまった。

しっちゃかめっちゃかの部屋

 なにしろこのタコ部屋、研究室の図書室を兼ねている。20世紀後半の学術雑誌がところせましと天井ちかくまで書架にずら~とならぶ。本のおもさで、小錦のパッテングするボールが極端なフックラインをしめすようすをキャディ役の教授が関心しつつながめたぐらいだ。

このあやしげな3階の床こそ、5階建ての天井に集まった雨水が2階へ漏水する面妖な現象のほんとうの原因かもしれない、と深夜に3人でひそひそ話した。

のこりのわずかな部屋のすきまにわたしら3人が机をかまえる。アクロバティックな配置でどうにかこうにかなってきた。そこへブンブンがプリンターを置きたいと言いだす。

3人の合議により、小錦のおもちゃ(グローブ、ゴルフクラブ、漫画雑誌、ビリージョエルのカセットテープ類)をかたづけると話がまとまった。

夏の夜のできごと

 なにしろ平面では置けないので、3次元的に空間をゆがめつつPC本体・・・モニタ、そして・・・プリンタとつなぐ。それぞれに電源が必要でただでさえすくない電源コンセントからタップをたこ足化(よいこはまねしないでください)、たいへんふくざつな配線となった。

くもの巣のような配線をかいくぐりつつ、わたしはヨガのようなうごきをしながら自机につく毎日だった。

 そののち夏が来て暑がる小錦が扇風機をタップにつなぎ、「3(強)」ボタンを押した(👇)とたん、研究室全体の電源が落ちた。実験をしていた4年生をはじめ、それぞれがうす暗いなかでアリの巣をつついたようにおおわらわ。

低温室のだいじなものを冷蔵庫に移動させる者(意味がない)。分析装置がお休み状態になり実験データのとりなおしを余儀なくされたわたし。そしてその日に苦労して入力したブンブンの研究結果は亡きものになった。

この日以降、この部屋の電気配線がすっきりしたことはいうまでもない。

「98」の威力

 さて3日3晩ほとんど実験せず、98のお守りをつづけたブンブンは、どうにかプリンターでテストプリントを打ち出すことに成功、わたしたちだけでなくキャンパス内の200メートル以上離れた同じ学科の講座の院生なかまのところまでわざわざ見せに行った。

個人でワープロ文字を打ち出せるなんてと新鮮な驚きだった。今ふりかえると、うすぼけたドットの粗さのめだつフォントの文字だが、ひかりかがやいていた。うらやましいかぎり。教授自らブンブンのところへたち寄り、こまかな点までたずねていたぐらい。

さらに数か月後のこと。わたしの以前所属していたサークル顧問の助教授(いまの准教授相当)が、米国で倍々とふえつつあったMacintoshのAppleⅡをたずさえて帰国、それをみやげ話とともに見せてもらい、強力な印象がのこった。文明開化とはこんなかんじだったかもと真剣に思ったぐらい。

わたしたちは…

 はなしは突如その1年前の4年生当時にさかのぼる。しがないサラリーマンのむすこのわたしは、父親のかじるすねの残りすくないことをさとり、仕送りはいいからそのかわり大学院に進ませてくれと懇願、しぶしぶの了解をもらい、どうにか院生として大学に残った。

4年で大学を去る同級生たちの就職先は、当時の花形だったLSI製造現場、精密印刷技術をともなう基盤などのハードウエア、ソフトウエア開発会社が多かった。なにしろ世はバブル。初任給が高かった。卒論発表後の追い出しコンパの2次会、マハラジャの店内で大音響のディスコサウンドのなかでおどり騒いだことは忘れない。

さて、はなしを時間とともに大学院のタコ部屋にもどそう。

ブンブンの98をみせつけられた小錦とわたし、もちろんPCを店に見に行った。ところが売り場のもっとも奥に鎮座する98は垂涎の的。もちろんしがないバイトに追われる両者に手も足も舌も出ない。あんぐり口をあけるしかなかった。

しからば…

 そこでおなじ店内、ワープロに足が向く。当時はワープロ専用機なるものが登場して数年。日本の電機メーカーがこぞって製造販売しており、ずら~と店にならんでいた。ところがどっこい、わたしたちは大学院生。文字執筆に関しては、わりとヘビーユーザーの部類に属すと知る。

よってワープロとはいえ中堅機以上が対象。当時は東芝やNECなどが多かったが、小錦はシャープ、わたしはサンヨーを選ぶ。わたしはそれ以降、PCに乗り換えるまで、液晶画面の大きい後継機へと買い換えていった。

ワープロ専用機は、タイピング入力キーボード、本体、モニターに相当する液晶パネル、インクリボンもしくは熱転写用紙によるプリントアウトと一台でそれらの機能をもつ。ブンブンのPCとはことなり持ち運びもできる。ちょうど今のノートPCと形状が似かよっている。

もちろん電源コードひとつでつかえるので、タコ部屋の難題、電源問題にも対処できてつごうがよかった。

そこでの話題…

 研究室では、毎週きまった時間にゼミの全員があつまり、講読や研究の中間発表がおこなわれる。はじめてブンブンが98でつくったレジュメを全員にくばって実験結果を紹介。発表後の質問は研究の内容ではなく、どうやって文章を打ち出すのか、文字の大きさは変えられるのかに終始した。

これを打ち出すまでに、ブンブンが2日ほど徹夜したと知るわたしたちふたりの院生はだまっていた。

小心者のわたし、徹夜はこたえるのでブンブンの発表と同時に準備をはじめ、翌週の発表をなんとか済ませた。ここでも質疑応答は実験結果ではなくワープロ談義。

教授たち教員も結局それほど手をわずらわせないワープロを携えつつあった頃。しばらくゼミの話題の中心は機種のちがいを披露する内容となった。翌週は小錦の番。ここでひとつ問題が生じた。

ワープロのお守り

 当時、ワープロ利用者が気をつけておかねばならない3つのおきてがあった。

①インクリボンもしくは感熱紙の予備をおこたらないこと
②入力したワープロ文書の保存用フロッピーディスクの管理とバックアップ
③液晶のトラブル

これらのうち、①と②はすぐさま必要になる。③は忘れたころにやってくる。小錦は最初のゼミで①を、②についてはほぼわたしに頼ることに。そしてとどめは数か月後に小錦に起こった。

液晶の不安定さ

 小錦のもつワープロ。先週、上の4階の4年生のワープロが壊れた話を小錦が仕入れてきて私たちに話したところ。その数日後にまさか彼の身におこるとは。

いつものように実験しながら、ゴルフパットをしながら、ビリージョエルを口ずさみながら、ワープロをその片手間に打っていた小錦。「あっ。」のひと声にブンブンとわたしは声のするほうを向いた。「あ~。」と今度はながくうめいた。「どうかしたん?」とへんな方言で尋ねるブンブン。「うっあっちまった。」と聞こえたわたし。

できごとのなかみ

 つまり、小錦のワープロの液晶がふっとんだ。「電源抜いてみろ。」ブンブンがあきらめ半分にアドバイス。しばらくのちに首をふる小錦…。

この現象、何度か不穏な画面が見られたあと起こった。そのたびに電源を抜きONしていた。もちろん液晶なので保存していないと入力中ならば失う。小錦はそのときずばり保存してなかった。

やはり試行錯誤しても二度とは明るくなろうとしないワープロを横におくと、わたしはおもむろに自分のワープロを小錦に3日3晩貸すことに。

タイプライターの復活

 どうにかわたしのワープロのサポートで自分の講読を終えた小錦。彼とふたりで近所の販売店に向かった。なんとかアルバイトの金を工面できた小錦はワープロを入手できた。

こうした故障、わりと頻度が高くメーカーによってその頻度が異なりそうだ、と学科内のなかまうちでうわさした。教授たちのあいだでも先週、だれだれのワープロが故障したとかいう話がつづいた。

それほどよく使う機材だったといえよう。研究室ではそれ以来、バックアップ用最終兵器として、だれも壊れるところを見たことのない、教授室に鎮座するIBM製の英文タイプライターが活躍した。


紙の1か所にねらいうちする程度ならば、むしろこのタイプライターのほうがべんりで、もっぱら使い慣れたわたしは4年生たちに位置あわせのコツを伝授していた。メリットもあったのだ。

それはだんだんと研究室のメンバーが、ワープロからPCを個人で使うようになる時期だった。


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