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地方で町おこしとはべつのおだやかに「集落を閉じていく」方向のしずかな生きかたを選べないだろうか


はじめに

 最初に記すが全国各地でおこなわれている「町おこし」の各種の行事やしごとについてとやかくいうつもりはない。それらは尊重されるべきだし担当されている方々には頭が下がる。

しかし、どうもにぎやかでないと、活性化しないと、交流がさかんでないとうしろからせっつかれるように活動する全国津々浦々の現状につかれてしまう自分がいる。手をこまねいていては地域経済が成り立たないとか、うしろむきなのはヒトの生き方としてはとかいろいろ聞こえてきそう。

無理をしてないだろうか。

しずかに生きていける方法はないものか。

わが生きかたは

 わたしはあまのじゃく。ヒトビトがまとまってこうするといえば、ああしたい、あるいはそれはちょっと…。と、いろいろ行動にブレーキのかかるほう。はたからみれば「尋常でない」のかもしれない。ふだんの生活の継続こそが最上で、「ハレ」がなくて「ケ」だけで生きていけるほう。つまんなくはない。

「ケ」の維持とは見えないめだたないところで活躍されている地域の方々のささえがあってこその賜物。それは承知の上だ。ひとりでは生きていけない。その維持への協力はなるべく気づいて自分からしている。

それとはことなりふだんとちがい率先してうごくと、そののちがうまくいかない。むしろマイペースを維持しつつ、じっくり、たしかめながらすすむほうがうまくいく。そんな人生を歩んできた。でもそれをヒトに勧めようとはおもわないし、ヒトはヒト、勝手にすればいいと思っている。

日本中で

 ただ、われもわれもという状況は見ていて耐えられない。自分は引いておこうと思う。現在は「町おこし」がそう。これに類するイベントはたしかにヒトを呼び、あつめるには好都合なのかもしれない。

その活動を担うのは、その街で元気のあるヒトビト。通常の業務をやりながらこちらもやる、そんなエネルギーに満ちた方のいらっしゃる街ならばそうすればいいしそれはそれでよいが、そうともかぎらない。

以前のことだが元職のときに、クニから地域活性化に関する比較的大きな額のプロジェクト研究課題を採択された。そこで各地をめぐって地域の現状について役場や関連団体の方々からさまざまうかがう機会があり、この記事に記していることを思った。

それから幾年月を重ね、その当時危惧していた状況が目の前にある。もともとうごける人材などあまっている街ばかりではないし、はたからみると日常の生活でせいいっぱいなはずだろうに、やろうとする方々やそうした街をみてきた。これは本末転倒ではないか。無理をしていないか。せつない。

おだやかに閉じていくのは

 ヒトがいないのに無理する必要なんてないのでは。現状を維持していくだけであっぷあっぷなのに、残りのエネルギーを「町おこし」のために使っていていいのか。とくに地方の街の周囲の集落。そこの多くは人口減がすすみつつある。街ー町ー集落。おかしなならべ方かもしれないが。

一方で、こうした集落をふわりと軟着陸させることに目を向けては。時間がかかるので。今後くる限界、お手上げ状態にそなえて、集落の末端まで行き届くライフラインの維持や整備をどうするのか。

街や町の機能を集約し、動きづらい方々の生活をどうやってくふうしつつ維持し、いのちを守っていくのか。こちらには何倍も時間と労力がいりそう。こちらに残ったエネルギーを費やしてはどうか。

していないわけではない。それもやりつつ町おこしも、といいたいだろうし、理想的にはそうできればなにもいうことはない。でも現状はあまくない。そのための町おこしではないかという意見もありそう。

衰えることへの配慮や税金の投入、人材の投入など一見すると「活性化」とは反対のようにみえることに費やすむずかしさが山積。そこへ知恵をあつめないと。限界はもうすぐそこにきているかもしれない。地震、水害、台風など大規模な自然災害に見舞われたとしたらその限界が明確にひとたまりもなく露呈しそう。

おわりに

 なにもかも悲観的にみたくはないし、そう捨てたものではないと気づけるのが住み場所。なじみの場所がやっぱりいい。住んでいる方々にそう思いつづけられる場としてできるだけながく維持できればいい。

それは一朝一夕でできたわけではなく、この地の先人の方々の努力のたまもの。それには協力を惜しまないし、わたしとて本来ならばそこにのこる力を費やしたい。

ではいずれくる次世代以降はどうか。この末端地域へ住むにはライフラインは自己責任ですよとか、自治体では限界がありますよとか。行政サービスに限界があることの理解をひろめられるか。

この許容度はおそらく自分もふくめてヒトそれぞれ。住むヒトビトのあいだでコンセンサスを得るべく話し合いを集落ですすめるべきだろう。どれをとり、どれをあきらめるか。

自分本位、わが土地本位かもしれない。首尾よく「ケ」の生活だけでも周囲の方々の協力、力や知恵を寄せ合いつつしばらくのあいだだけでも維持できれば。

以前に記事にしたように首尾よく「集落をとじていく」ことの是非について、限界が来る前に場所によっては議論してよい時期にきているのではないか。


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