見出し画像

自信のないままに自らの進路を選んでいった10代の頃をふり返る


はじめに


 最近サポートする生徒の進路をきっかけに思うところがあって、自らの進路選択の当時をふり返ってみている。

前の記事につづいて、今回は進路を模索していた高校生~大学生の頃について触れたい。

当時の自分について記憶をたどってみた。


専攻を決めるにあたって

 中学までは地元の工業高校(家から歩いてすぐ)にすすみ、機械工になろうとばくぜんと考えていた。自動車のエンジンや電化製品を組み立てる自らの姿を思い浮かべていた。

結局、進路は定まらないまま普通科の高校へ。中3の受験前でも放課後は音楽ばかり聞いていたが、何とか進学に必要な最低限の学力でもぐりこめた。

高校では周囲の影響もあり、しぜんと大学に進む心づもりになっていく。やはり周囲の影響は大きい。

思っていた以上に広い範囲から進路を選べそうだった。けっこう移り気で本を読んだり映画を見たりするたびに憧れが湧いて、いろいろな職業を想像する。化学者もいいな、先生や絵かきになろうかと。

大学に進むにあたり専攻で多少迷った。中学以来の勉強法が身につかないままで学力を落としていくが、方向性は変わらない。化学の方か美術のほうにしようか。いずれも色彩の不思議さが魅力だ。

誘いに対して

 結局、進路の決め手は「食べていけるかどうか」。働いて食べて生きていくにはどうすべきか。

高校では運動部のごく平凡な生徒のひとりだったが、ふと選択科目の美術の実技で最高点をもらう。

美術教師から放課後に絵を描いてみないかと誘われる。教えても身につくものでないセンスがあり、少し手を入れれば大きな賞をとれるだろうという。教師は画家として絵を発表する人物だった。それなりにピンときたのかもしれない。

指導する美術部の生徒たちは県でつねに上位受賞していて、昨年の県特選の200号の絵が廊下に掛けられていた。

数日のあいだ、どうしようかと迷った。もちろん認めてもらえてうれしい。放課後、美術部に入り絵に没頭すると、もう一方の運動部がおぼつかなくなる。運動部ではレギュラーメンバーになれない身を承知でつづけていた。

入部を決めたらやりきるのがたいせつと当時は思っていた。何よりも自分の絵には魅力を感じていなかった。他人の描く絵のほうが格段にいい。それで教師の誘いを丁重に断った。

お誘いをお断りしますと伝えると教師はしばらく不機嫌そうにしていた。済まない気持ちだったがしかたない。

自分の絵でここまで言ってくれている。だが教師の期待する絵は自分には到底描けないことは明白で、迷惑や苦労をかけるのは忍びないと思った。うまくそれを伝えられない自分がもどかしかった。

思い返すと

 当時のわたしの写真。ほんとうに情けないほど自信のない顔つき。これでは繁華街で脅されるはず。実際、何度かそういう目に遭っている。もっと自信をつけなきゃとは思いつづけていた。このまま将来もびくびくしながら暮らしていくのかと思っていた。

したがって大学受験でも冒険せず安全圏の大学を受験して進学。クラスで自己紹介のとき、ここに来るはずではなかったと正直に話す同級生の多いことに驚いた。多くの人がけっこう挑戦してきたんだと知る。現役合格は6割ほど。途中でやめて医学部を受験する同級生や先輩がいた。

4年で講座に入ると同級生を含め最年少、大学院にすすんでもしばらく最年少だった。やはり人とは苦労して手のとどく精一杯をめざすようだとつくづく思った。

ただし自分が憧れていた化学。物質の色を使った学問分野に進めたのは幸い。興味がある分野なので、その部分だけは運良くまとめられて、修士論文を仕上げられた。

この頃からだろうか。ようやくやればできるじゃないか、なにもかもできないわけじゃないと思えてきた。自分のまわりに人が集まりはじめる。相談ごとの聞き役が増えた。

おわりに

 高校生がおのれを知ることは難しい。生徒たちをサポートする立場になってみるとそれを実感する。上述したとおり自分だってそうだった。

だれでも将来が見えないなかで進路を選択する。もちろん普通科高校に進めば、それをさらに3年近く伸ばせるにはちがいない。だがそれでも見えてこない場合もある。

これがふつうなのだろうか。いやわからない。人それぞれだろう。なぜならばこれだけ千差万別の職業に各々の方々が就いている。そのときどきで選択の機会があり、運・不運などがそこに関わる。

何がよかったのか、それともよくなかったのか。まるで将棋の感想戦のよう。終わってしばらく考えないとわからない。


関連する記事


#振り返りnote

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?