濃密で奥深い経験のできる学校ですごせる期間なんて10余年にすぎない
(2024.9.16加筆)
はじめに
さきほど歯医者にむかう道すがら、道沿いの高校のピロティーに制服姿の女子高校生3人。たのしそうに話している。そうか休み時間か。若さに輝いてみえる。学校時代を思い起こす。
そこですごせる期間はながいようで短い。あっというまかもしれない。存分にたのしむといいよと思いつつ通り過ぎた。
きょうはそんな話。
生徒たちのすごす場
おとなになってもテストのゆめをよく見る。たいてい出来はよくない。何でよくできた夢をみないのか。
1年のあいだおなじクラスメイトとすごす。そのまま長いつきあいになることもあるが、それきりのヒトも。とおりいっぺんの学校行事をそんななかまとそつなくこなしてあっというまの1年がすぎる。するとあらたな学年でちがうメンバーと顔を合わせる。
よくよく考えると、しごとに就いてからの同僚たちとの出会いとくらべて出会いの頻度が高い。もちろん転勤や配置換えにともない大幅に変わることや新人を迎える場合もあろう。
学校ではまだヒトづきあいになれていない年代でひんぱんにヒトの入れ替わる場を敢えて設けている。多くのこどもたちはあらたな出会いにとまどいつつもそこですごすことになる。
ヒトに慣れる
あまたの経験を経て友達づくりやヒトとの対峙のしかたをおぼえていく。ただし同年、あるいは前後程度の学年(部活動をつうじてとか)との間柄。もちろんおとなの先生たちともつきあう。とはいえ外の社会の多様なおとなたちとくらべるとわりと定型の存在にすぎない。教師をつうじてしか学校ではおとなとめぐりあう機会はあまりない。
もちろん中学生でも職場体験などの学校行事はあるが、ごく限られた期間。しかもお膳立てされた内容や活動に過ぎない。やはり同級生からヒトづきあいを知るしかない。同学年でもさまざま、おたがいにああだこうだとぎこちなくぶつかりあいつつ試行錯誤、みようみまねで身につけていく。
ヒトとめぐりあう
大学などに進むと周囲はすでに成人に達し、アルバイトをつうじて社会を知る機会を得る。ほかにもボランティア(高校以下でもできるが)やほかの活動も広がりが出る。もちろん企業ではたらく経験もできる。社会と接してみてなにが必要か、適性はとかいろいろ相性をさぐる機会。
もちろん高校を卒業してすぐに社会に出る場合は大きく周囲が変わる。一人前になることが求められるし、それを目標にまずはしごとを覚えること、そして先輩たちとのつきあい方がだいじだと知れる。こうして多くのヒトビトはヒトづきあいについてなにかをつかみかけて「学校生活」からはなれて社会へとむかう。
あのときこうすれば
いま思い返せば、あのときもうすこしこうすればよかったと思うことも。でもよく考えてみれば当時は未熟。失敗も当然あるし、とりかえすだけの時間の猶予もある。いまのしたり顔で当時の自分を諭してもしかたない。当時はあれはあれでみずからの考えにもとづいた言動。
後悔しようが時間を巻きもどせるものでない。いずれもいまふりかえると悩ましいし、あえて思い出したくないことも。でもそれも事実で変えることはできない。
おわりに
精一杯を生きてほしい。高校の校庭で楽しげに集う高校生たちにそう言いたい。制服ですごせる期間なんてそんなに長くないから。
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