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本やノートなどの紙の情報のもつ荷のおもさから開放されて肩の荷がかるくなったと気づく


はじめに

 目のまえのたくさんの情報の山に安心しきっていた。そんななか身のまわりの情報のほとんどを処分すればどうなるか?かぎりなくそれを実行してみて数か月すぎる。

結果として基本的になにも不都合を生じないし、身辺に変わりはない。なあんだそういうことかと思い知る。

きょうはそんな話。

たくさんの本たち

 家のひずみの多くはこれらの本やノート類の荷重によるものだった。1トン近くをさまざまなかたちで手放した。一番多いのはリサイクル。そのほとんどはとるにたらない、紙として家に負荷をあたえるものとしてしかはたらいていなかった。のこしておくのはこの際ご法度。記憶のすみにとどめておくだけにした。

すでに存在すら忘れていたものが多い。あとで後悔することはほぼないと思うし生きていける。ただひとつあるところに提出して出版された報告書もしくはその原稿があればいいのだが、ゆくえはさだかでない。おそらくワープロ時代のもの。所定の書式で入力されたデータをとりだすのはもはや不可能。あきらめる。

大部分の本は、かかわりをもつあるNPOの活動につかえそうだと寄付。これが7割ほど。きれいに手入れをして見違えるように棚にならんでいた。こうして「図書」として手にとってもらえる本たちはおそらく本望だろう。わたしが死蔵したままでは浮かばれまい。

のこりの3割については処分作業が継続中。第二弾、第三弾と処分をまつ本たち。140冊ほどをダンボールにつめて買取業者に送った。査定の結果はほんのすすめのなみだにすぎない。それでもいい。しかるべき場所におさまったわけだから、いずれごく一部でも活用してもらえそうならばそれでいい。

シュレッダー行き

 家族が中古のシュレッダーを手にいれた。必要にせまられて。かたづけでいっぱい出てきて心配なのが個人情報。わたしのものではなく他人様のもの。もはやわが身の情報はダダ漏れのはずだからいまさらどうしようもない。

かかわった方々の情報の流出はぜったいにふせがねばならない。不注意で流出なんていちばんよくない。そこでわずかでもその可能性のあるものはひとつのこさずシュレッダーにかけることに。

裁断して処分して

 これが意外と時間を要する。いっぺんにやるとつまらせたり、オーバーヒートしたりで機械のほうがもたない。だましだまし、あいた時間にすこしずつ処分していく。

はがきや書簡などが多い。名簿や同窓会名簿なども危険のかたまり。ぜったいに外部流出をふせがねば。なぜこんなにかかえていたのかびっくりするほど。以前はこうした情報のあつかいがルーズだった。

なにげなくごみでポイとすてるのはかんたんだが、かんがえなしにやるとまずい。電子データもおなじ。PC上にはそういった流出をしてはならない情報をのこさないでつかう。方法は数々あるだろうし、その詳細はあえてふれない。

いったん書きこんで記憶させた情報を消すのはなかなかやっかい。家族はいったん初期化し、そののちにある方法で上書きをくりかえして、そのうえで物理的に破壊。念には念をいれている。

そのかわりにあたまのなかにのこしておきたい情報は記憶。いずれは忘れるかもしれないがそれでちょうどいい。無にかえっていく。

おわりに

 日に日に身軽になるのを実感する。たくさんの情報をまとっていたところから身ぐるみはがされたわけだが、なにも不都合はない。ある意味、いまのわたしにとってすでに必要ではないものに変わっていた。

こんなに身軽になるならもっとはやくやるべきだった。ほうっておいたために、いまになってそのぶんの時間をつかってしまう。たくさんのひみつと責任の重さにぎゅうっとおさえつけられていたのかも。

「肩の荷がかるくなる」に、こんなかたちがあろうとは。本もおなじ。読んでは考えふたたび目をとおして確認したり、なるほどそうかと再認識したり。その状況までくればいったんその本からはなれていいと自分なりに納得。それ以上はわが身にとってはもうおなかいっぱい。

そういいながら、学習サポートの生徒のためにあらたな本をさがしに本屋へむかう。ほんとうにわが身ながら気がしれない。


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