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このところなにもしないで青空を見あげることをしていなかった


はじめに

 夜あけまえ。うすぐらいクローゼットに足をはこび、手さぐりでぶらさげたシャツのひとつに手をのばす。手にとりあかるいキッチンのほうへ向かうとうすい水色のコットンシャツだった。きょう1日はこれですごす。

そういえばこのシャツのような空をながめていないなあとフライパンを手にしつつ思った。

きょうはそんな話。

このところくもり空

 梅雨のさなか。昨年おもいきって枝をきりつめて寸を低くしたので、庭の梅は実をつけていない。だからことしは梅の作業はなし。今後もゆったり作業をすることはなさそう。それには理由がある。

四半世紀すみついた一戸建ての家から賃貸にひっこし間近。災害の危険度の大きい大風や雨にたびたび遭遇し、周囲はたびたびくずれた。そしてここ3,4年は避難の機会が増している。この家は行政から「危険だよ。」のお墨つきがのちについた場所。なるべく建てるまえに用心したつもりだったが、現実にはその予想をうわまわった。しかたない。

そこで賃貸に移れる年齢のうちに街なかへひっこしを決意。あらたなことをはじめる準備の場所も兼ねて。

この1,2か月は自宅の種々雑多なもののかたづけに追われた。平日はしごと、休日はかたづけ。そのあいだに身近なヒトビトへゆずれるものをわたした。家財はぱっとみわたしてもさほど変わりなく見える。もっとかたづけないとさらに減らさないと段階をふんでいる。

息をぬく時間

 ここ数年は昨今の状況もありでかけていない。以前からさほど遠出をしていないが、いまは極端にしなくなった。1日をふりかえるとしごとをリモートでやると、玄関から外へ1週間ほど出なくてもなんとか生活できた。外にでて呼吸することすらしない。家のなかから外の世界をながめるばかり。

床にすわると庭の一角の木々の枝は見えても空はほんのわずかしか見えない。どのくらい雲におおわれているのかは判断できない。このあたりの天候を左右する西の山々はこの家のどの窓からも見通せない。仕事に外に出るのは早朝の夜明けまえ、帰りは夕方うす暗くなってから。

つまりここ数年、この家やまわりで空をゆっくりながめていない。

やっぱりふつうでない

 この状況に慣れてしまえばそんなでもない。なんとか生活できている。だけどこれでいいのか。以前に農業をしていたころのように日にいくたびも空とはたけの作物たちのようすを見くらべる生活のほうがこのあたりにはほんとうはふさわしいのでは。

それにもどることはもはやないと思う。ここのはたけはすでに山の動物たちのものになった。なにをつくっても荒らされる。つくっても収穫まえにはしっかり食糧としてもっていかれる。そのくりかえし。あれこれやってみたし、ハンターの方々にもお世話になった。それでもいたちごっこはつづき、ますますもっていかれようはきびしい結果に。

おわりに

 いまではやさいは買うものに。ここでやること、ここにいることの意味をたえずかんがえてきた。空を見あげる価値やありがたさもじゅうじゅうわかったうえで。それを置いたまま街にでるのはさすがにうしろ髪をひかれるおもいがないとはいいきれない。たしかに惜しいがいたしかたない。

街では空をぐるりとみわたすことはかなわないかもしれないが、空の一角を見あげることはできるだろう。あたらしい生活がはじまる。それに期待するしかない。

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