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noteに100日連続投稿 毎日2,000字ぶんの考えをめぐらす時間をいただけた周囲のおかげ


はじめに

 このところまたたくまに年月がすぎていく。光陰矢の如し。あれっ、ついこのあいだ正月だっただろう。そんなかんじ。ことしは世のなかをまきこむ大きなできことが進行中。それでことしの前半にははじめたばかりのnote記事の投稿をいったんひかえていた。ところが事態は膠着し、ながびいている。

その経緯のなかでこうかんがえた。なにしろ明日はどうなるかだれにもわからない。それだけに連綿と受けついできた生命のひとかけらとして、なにかしら文をつむぐ作業をやってここへのこしてもバチはあたらないはず。

こうして記事を100回つづけて投稿した。むしろそんなご時世だからこそ。想いはそこにあり、むしろ無心になりつづけてきた。

昨今の状況のなか

 世のなかがさわがしい。どこをむいても。なにを読んでもそう。ひとむかしまえとくらべるとあきらかにご時世というか世のながれというか、気ぜわしい。時代のかわりめに突入したのかな。

それは一見するとのどかななかにどっぷりつかればつかるほど、その対局として一方でつよく認識せずにはいられない。おだやかでうつくしいなあと感じれば感じるほど。ふと、こころのおくそこが一瞬だけざわつく。あすはどうかな、このままなのかなと。

したがってきょう1日はこう考えたとか、このことをあたまに思い描いておこうとか。あの時期に棚に置いて保留したものをよいしょとおろして反芻する行為をやってみる。

その一環としてnoteに文を記す。まさにそれにふさわしい行動。ひとつのあかしとして書きしるす。文章にあらわすことを通じてすなおに内面にむかう。

世のなかがどうあれ

 さわがしく、どこへむかうかみえない状況。混沌がしばらくつづくのかもしれない。足元がおぼつかない。そんな気分のままだと世のなかのそうした右往左往の状況にながされてしまう。おちついて自分を見失わずに立ち位置をさだめてすごすにはものごとの本質を知る以外にない。

こうありたい、こうすればよりいいのにをわかっていてもそれをなし得ない、どうしたらそれにすこしでもちかづけるのかとたえずかんがえる。でもこたえはみつからない。もどかしい。そんなきもちはわたしだけではないと思う。

つねにそうかもしれない。毎朝起きて食事をし、身じたくをしてはたらく。そして家にたどりつきねむる。そのあいだつねに上のかんがえがつきまとい、そのたびにおなじ思考がめぐる。しかもそのこたえはみつからない。そのくりかえし。

どうどうめぐりのなかで

 この1年はとくにそう感じつづけた。みずからの身やその周囲に直接的に事態が押し寄せてきては通りすぎていく。いつその当事者になるのかわからない。そしてそのときどう判断してどう行動するのか。

どれも切実だし、いのちにたちかえって後悔しないようにまえもって考えておこうと思いつづけている。

起きるたびにすこしずつちがう行動や判断の余地はないかしらべて、話して、うごいてみる。

おわりに

 やはりじぶんからうごくしかない。よりよい判断と行動をみちびくには。それはまちがいなさそう。結局のところ1年半前にnoteにたどりつき、そしてことしの後半からnoteへ100日連続して投稿しつつふとおもったこれが通過点。


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