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若い方々へ:なにかと不便だったころを知る層なのでわたしたちをほうっておいていいのでは


はじめに

 いちど同様のことを書いたがもう一度。

すくなくともわたしの生まれた頃(1960年代)まではまだユニセフの食糧(給食の脱脂粉乳など)の援助を受けていたほどだった。戦後の余波からぬけだすための社会資本の整備も途上。街でもすこし郊外にむかうと舗装されていない道路や下水道工事がいたるところでおこなわれていた。

とくに地方などはそのままというか、「環境」などに気を払う余裕もない。住居のそばには廃棄物の山。そんな時代をすごし、そまつな身のまわりですごし、おざなりなモラルのなかさまざまを経験した。コアな層がそんな生活だった。

さて、現在。数のすくない若い方々は自分たち世代を基本的にほうっておいていいと思う。むしろ未来の子どもたちに目をむけて自分たちがくらしやすい世のなかを築いてほしい。

きょうはそんな話。

支えるから

 いまの若い方々はわたしたち世代のために精神をすり減らすよりもむしろ未来のあとにつづくこどもたちやヒトビトがくらしやすいシステムづくりを中心に活動してほしい。だれがなんと言おうとそれが望ましい。

わたしたちはその下支え役にまわれる。すでに世代人口は減りつつある段階の世代だが、じぶんたち同士でどうにかできるぐらいの数はいる。数のすくない若い方々にとっていごこちのいい、しあわせを感じられる生き方はおそらくいまのままのシステムでは得られそうにない。

バトンタッチ

 誤解してほしくないが年寄り(つまりわたしたち世代以上)のほうをむいて、そこに莫大な費用や手間をあててしまうままではこのクニはいつまでたってもよくならない。もちろんだれでも年をかさねるのでそれなりに未来も安心してすごせる環境をととのえ、その整備は若い方々のめぐりめぐって将来に関係することではある。でも今のままならば制度疲労は必定。

もちろん若い方々の信念でなさることをじゃましたくない。課題をそのままにしているわたしたち同世代で処理したい。それでも足りないならばわたしたちがじゃましない程度にささえるから。

できることとできないこと

 わたしたちは情報社会に関して後追い、あるいは泥縄式で接してきた世代。それでどうにかつじつまをあわせてきた。これからもできる範囲でそうするつもり。いわば自己責任。若い方々の責任ではないのにその問題を担当させられている。どうしたものか。

問題は若い世代の方々は世界標準のあたらしい情報を扱えて当然だし、その便利さやスムーズさを享受しないままではもったいない。このクニにいたばかりにそれができない、しかも享受させまいとする上司や責任者。なげかわしいし、もってのほか。そこは同じ世代としてわきまえないとなあ。

もう若い方々の世のなかなんだし、バトンをわたすときがとっくのむかしにきている。これはこのクニだけではないのかもしれない。「老害」としてブレーキにしかなり得ない。理想は世代間の垣根を越えて協力し分担し合うこと。現実をそれに近づけたい。

先が見えるように

 根本はそこにありそう。数の少ない若い方々優先の世のなかであってほしい。せめてこのクニの平均年齢よりも若い方々や学生さんたち。こららの世代が未来に希望がもててあかるく見えるまではじゃましないかたちで支えたい。最後のサポート役をかって出るつもり。軌道に乗れば若い方々へとバトンをすみやかにわたす予定。

なにも声をあげずもくもくとやりさえすればすむことばかり。こうして文章に起こすのすらじつは気恥ずかしい。年寄りは自分たちのことは自分たちですると世代内で完結を徹底すればすむことが多い。同世代で支え合うから。なにも若い方の貴重な労力を使わなくとも。

おわりに

 なにをすべきか、どこをささえるべきなのか、数の多いわたしたちのほうが経験を活かしてもくもくとやるほうが世のため、ヒトのためになりそう。若い方々のじゃまだけはしないように。

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