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ふだんづかいの食器の大胆な整理とつかいやすい棚での再配置をこころみた


はじめに

 きょうはすでに起きるまえにnoteにこの内容で書こうと決めていた。ところが朝食の準備をしてぽつねんと食べていると、あれっ何のテーマだったけ?と思い出せない。ふたつほど思いついていたはず。このところ頭のなかからポロポロとこぼれおちてどこかへ行ってしまう。やれやれと思いながらついさきほどやっていた行動について書こうと決めた。

きょうはそんな話。

毎日つかうもの

 みずからの身のまわりのほとんどはそうだが、「テキトウ」がすき。なかでもさらや茶碗に関して「食べものをのせられればいい、食べられればいい。」でいっこうにかまわない。

大学にすすみひとりだちするわたしに伯母が無地の皿をゆずってくれた。いまだに何十年もつかっている。ものもちはいたってよいほう。そののちほとんど買わないでいつのまにかどこからか湧いて出てきたかのように食器が増えた。だれからみてもむとんちゃく、無関心。

数年前にさすがにおもいきって半分ほど処分した。減ったにもかかわらずそれ以降もまったく食器に関してこまることはない。

さらなる処分

 もうしばらくで新生活にあわせて長年住みなれたわが家をはなれる予定。それにさきだち文字どおり身軽になろうと家のなかを大整理。あとはダイニングキッチン。ここが山場か。そのうち食器類にかんしてはうえに書いたようにいちど処分しているので安心しきっていた。

ところがどっこい、そんなになまやさしくなかった。「陶器類」は食器のみでないと知る。そう、花びん、つぼ、人形、香炉など調度品には陶器や磁器のものが存在する。しかもあつかいはやっかいなものが多い。わが家とて例外でなく、そうした贈答の品などが蓄積していた。

見なければよかったと思うほど。このところこうした贈答品をいただく行事への参加の機会は、昨今の状況やわたしのつきあいの変化により減ったにもかかわらず、こんなにいただいていたのかとおどろくほど。

助っ人参上

 もはやこれはたすけを呼ぶしかない。独立して家族もちのむすめを呼び、これらをすきなだけもっていってよいとメールする。彼女はこころえたもので、「こんなもの売れないだろう。」とこちらが思うものまでネットオークションで売ってしまう。それを生活の足しにするしたたかさをそなえている。親子でこんなに補完しあっている。どちらが親か子かわからないが…。

ズボラなわたしはそれすらおっくう。あげられればおしげもなくヒトにあげる。つくるやさいもそうだった。できたうちの数個を販売所に売ってしまえば、そののち追っかけてできるぶんを1時間以上くるまではこび、NPOなどの関係先のヒトビトに収穫したその日のうちにわたす。

売るよりも瞬間でさばけてしまう。つくる立場として(これは農家としてプロになりきれていないのだが)食べものを得にくいNPOの活動をたすけてさばけることのほうが売れるよりもうれしい。農家の方々ごめんなさい。

ガレージセールをしようにも

 これでもやさいに関してはほとんどむだにしていないのがとりえ。はたけで処分するニュースを長年見すぎたせいか、つくるたちばでは耐えられない。みのりはじめるとそろそろおちつかなく、受けとっていただけそうな方を指おりかぞえる。いちばんみっともないものを自家消費。

本来ならば食器に関してもガレージセールで「すきなだけもっていってください。」の立てふだをつけて置いておくといいのだろう。だが売ろうにも自宅まえにはヒトはひと月に数人ほどしか通らない。

したがって華麗に売りまくるむすめの存在はおおきい。

おっと、予定していた文字数を超えそう。そうそう、記事のテーマは処分したのこりのふだんづかいの食器の再配置だった。

まずはもっともつかうご飯茶碗をいちばん手にとりやすい高さのたなへ置きなおした。上にあげるたびに痛むうでのため、つかう頻度にあわせてのこりを上下にならべなおす。重い大きめの皿をしたに、かるい小皿をうえに。

たったこれだけの「くふう」すらこれまでやってこなかった。ここでもズボラぐあいが見えてくる。

おわりに

 さて、ここ数年ゆびひとつ触れなかった皿や椀に目をやる。これらはむすめのまえをスルーしたら処分しよう。のこる食器棚をどうしよう。木製の重厚なもの。見ためも変わらずまったくガタつくなどしていない。

なかみがからっぽになるとこうした家財も処分が待っている。あとに家に入られる方がつかわれるかな。身がるになれるまでの道のりはまだまだありそう。


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