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将来に向けて集落を閉じていく


はじめに

 おだやかに閉じていく街があってもよいのではと思う。

あくまでも私感だ。このほうがクニを維持していくうえで、よりよい道ではないかとつねづね考えている。さっそくこれからじぶんで移り住んでみる。

きょうはそんな話。


フェードアウトしていく街

 となりの街の話からはじめたい。そこはつねにヒトのおとずれるにぎやかな観光地(昨今の状況はべつとして)。地域活性化の活動がさかんでその内容も洗練され成熟をかんじる。なんとかしようと地域の方々が地に足をつけたかたちでしっかり活動している。

その街にはむしろひとむかしまえのくらしを連綿とつづけるうちに、それが魅力となっている。それにひかれて海外からおとずれてそのまま定住する方がいらっしゃる。

そことさかいを接するとなり街にわたしは住む。ものしずか。活性化に熱心な方々は中心地区にちらほらといらっしゃるが、ひと世代もふた世代も年代が上か、地域の衰退や不便さに気づいて活動する中・高校生がぽつぽついる程度。

実際にいる地区はそこからさらに7kmほどの中山間地の小さな集落。目のまえの集落の住人たちの平均年齢はきわめて高く、あき家がめだち文字どおりの限界集落間近の状態。数年まえのことだが畑にあがると耕しているのはわたしだけのことが多く、たまに80代や90代の方に出会うぐらい。

おなじ地区には40年以上まえに山を切り拓いてつくった小規模な住宅地(ニュータウン)がある。日用品をあつかう店はとうになくなり、病院や学校はもともとない。住人の多くはリタイヤされた年配者。


効率だけではないが…

 となり街のつねに訪問客のほうをむいた観光地としての必死なようす、それにむかしながらのくらしの共存するとなり街。通りのにぎわいと整然さは、街ざかいの道路標識をすぎてわたしの住む街に入ると様相が一変する。

メインストリートの国道沿いにはシャッターをおろした店あとがすでに20年以上放置され、草のなかにさびついた風情を漂わしている。どうにかしようと努力をしてきたとはいえ、もはやうごける体力のある人材が枯渇しつつある。いずれくる「集落じまい」の足音が聞こえてきそう。

それでもここに住むヒトのいるあいだはライフラインなどは維持される。かぎられた予算で計画をたて効率的な維持管理が必定となる。小学校の統廃合や水道の民営化の話がちらほら聞こえる。

今後、場合によっては山奥や集落のはしに住むには、そうした公共サービスを行きとどけにくい、あるいは割高になるなどを納得・承知のうえで住むといった段階を間近にむかえそう。

そうした不便になりかねない場所についてはヒトが離れた段階で、地域の人々の納得のいくかたちでゆっくりと自然にもどす費用をあてがうことも必要かもしれない。

あくまでもそこに住む人々の総意とくふうにもとづいて無理のないかたちで。


開発だけが発展ではないのでは

 こう思う。

 つぎの世代に受けついでいく地球。地域もおなじ。のちに生まれくるヒトビトがこまらないかたちにするのが現世代のつとめ。なにもクニ全体を活力のない場所にしようというわけではない。べんりで衛生的で住みよいコンパクトな場づくりをすすめたい。

住みつづける場と自然にかえすところ。そのあいだに緩衝地帯がおのずと生じる。そこはかつてはヒトが住んだ場所を一部にふくむかもしれない。一部は維持管理のしやすいしばし訪れて快適にすごせる場へとつくりかえていくのはどうだろう。

その一方で本格的に「閉じていく」ならば、みすみす廃墟を放置するのは見るに耐えない。さまざまな妥協点を見出してなんとか「住みつづける」という途中段階もあるだろうし、意地でも発展させるんだというべつの道もあろう。ヒトのかずだけ考えも多様。まとめていくのは苦労や努力もいるだろう。

そういう「閉じていく」提案や考えかたは異端だろうか。じつに多くの地域が課題としてかかえているにちがいない。

あとはわたしたちが現状を自覚して受けいれ、できるところからむりのないかたちで実行にうつしていく。それを肩の力を抜きつつやりたい。すでにそのタイミングであり、どこにスポットをあてて生きやすい場としていくか議論をはじめたい。

もう一度書くが、くしの歯が抜けたような廃墟とみまごう街ばかりが全国のあちらこちらに散在する未来だけは見たくない。

おわりに

 地球単位でみると、かぎられた資源や食糧については一部の人々で消費されている現状。環境や衛生についても世のなかの価値観をグローバルな見かたで変えざるをえない。

視点をわがクニの小さな集落に移したとしても問題は山積しており、同時に地球の問題解決も図らねばならない。長く親しんだ街と交流してきた人々。ふるさとはすてがたい。とくに人と人のつながりを維持しつつおこなうむずかしさはたしかにある。

そのいずれもそこそこ満たすには、やはり「閉じていく」視点への議論は欠かせない。より多くの人々に受けいれやすいところからはじめたい。

まずはみずから実践。まだじゅうぶん住めるわが家だが、そこをはなれて拠点となる中心街へとうごけるうちにうつり住んでみて、そのようすをこれからつたえたい。


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