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とおい祖先の冬ごもり・冬眠のなごりで近ごろねむくてねむる時間がながいのかもしれない


はじめに

 いつもねむい。なつのころとくらべるとあきらかにそう感じる。このねむさはどこからくるのか。朝のくらいうちから出かけ、くらくなり帰りつく。

いつものねどこのわが家は、この時期にはわたしがすごす時間帯はいつもくらい時間。その生活と睡眠はどうもDNAにかきこまれているのかも。ふとそんなことを思いつつしごとにむかった。

家族ようすから

 どうもわが家の家族は冬になるとよく食べる。これからの冬眠にそなえて準備する小動物のよう。いつもの食事をのようすをみていると、これから来るながい冬にそなえてからだのなかにエネルギーをためこんでいくよう。とくもかくにももぐもぐと食べている。

夏のあいだはそう感じない。むしろどうやってエネルギーを確保しているのだろうと思うほど食がほそい。一方のわたしは年中たべてないと電池がきれてしまうかのようになる。典型的なやせの大食い。家族たちは夏の太陽のとほうもないほどの暑さを体内のエネルギーに変えられるのだろうかと思えるほど食べない。

おそらく持ち込まれた家系からの遺伝子をうけついだのだろう。こどもをふくめた家族たちは、冬のほうがあきらかによく食べる。冬は太陽の陽ざしが弱くエネルギーにならないのかも。

祖先から受け継いで

 これって、もしかしたら大むかしの祖先から受けついだ体内のシステムのなごりかも。とおい祖先の哺乳類たちのある種のものは秋に皮下脂肪をつけ、長い冬のあいだ冬眠してねむっていた。

陽がみじかくなるととたんにねむくなりやすいわたしは「食」に関してはほかの家族とはちがい、年中変化なく食べているが、睡眠に関してはあきらかに冬のほうがいつも寝たりない。昼間にねむくなりがち。

よく食べるようになるか、ねむくなるか。ふたつありそう。まさかとおもいつつはんぶんは冗談だが。祖先の冬ごもりの性質をそれぞれよりうけついでいるのかもしれない。

「冬ごもり」の語感

 なにか「冬にそなえる」という語感はぬくぬくとしてここちよい。冬のきびしさが半端でなくなさけ容赦のない北国の方々にはそうは聞こえないかもしれないが。クリスマスや正月が夏にある南半球のようすはやはりピンときにくい。

さて、北半球のわが家。そとは夜間ならばさむさでいのちをいつ失うかわからないせかい。かべ1枚へだてたすみかは別世界。そのギャップは大きい。

そのいのちを守られているという安心感からくるやすらぎなのか、そこへひたったままですごしたいというきもちは冬のほうにあらわれてくる。

その点ではわたしもきっと祖先の血をうけついでいるのだろう。ふゆごもりをしたいなあというきもちがねむけを連れてくるのだと思う。

おわりに

 やっぱり家族たちを見ているとそんなむかしの小さな哺乳類だった祖先たちとオーバーラップしてしまう。冬になるといつもそんな感覚がわいてくる。

ちょうどこの時期にそわそわするきもちとともにねむくなるのは、そんな「本能のなごり」からくるものかもしれない。


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