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台湾アイデンティティ🐯

台湾といえばまずグルメと親日だろう。

そんな美味しくて優しい国、台湾は日本統治時代以前はマラリアと盗賊に怯えるスラムのような島だった。
さながら彼らの怯えをそのまま象徴するように、防壁に囲まれ鎮座していたのが清王朝だが、「大日本帝国の統治は正義であり素晴らしいものだった」という大きな勘違いと侮辱は日本人の観念から塵一つ残さず一掃されるべきだ。

全ては台湾を”統治”するために行われたという前提を忘れてはならない。

無論のこと、台湾を大日本帝国(以下、日本)が統治しなければ、おそらく台湾の発展は50年〜100年は遅れただろうと思う。

米国でも西欧でも台湾をリゾート開発と資源搾取でいいとこ取りするだけだったろうし、もちろん厳然とした差別が社会に機構的に組み込まれただろう。
南アフリカのアパルトヘイトを思い出してほしい。彼らはそもそも差別主義が歴史を覆っている。時代の変遷からもし必要性が無くなったなら、即座にゴミのように捨て去っただろう。当たり前だが、戦後の日台関係のような互いの交流などあるわけもない。

中国の統治にストレートに引き継いだとしても、清王朝からの移行に前の時代との大差はなく、特権階級の贅沢と棄民政策は拍車がかかれど後退することなどありえなかったろう。

日本の統治はそうした意味で台湾人にも益があったのは確かなことだ。
無論のこと、そこに暴力による衝突があったのは事実だ。また、当初から日本人が気持ちよく受け入れられたなんてことはまったくないのだ。

実際に、野武士のような盗賊団と一般市民はそれまで完全に対立したグループ同士であったが、日本の統治が始まってからは結託し日本の統治を阻害するのに成功していた。

とはいえ、結果的に見れば盗賊団は壊滅し、治安は保たれ、原住民への教育も進み(あくまで統治のための教育ではあった)、権威と防護の象徴であった王城の壁も取り壊されインフラ整備も進み、前の時代とは比べものにならないほど大分風通しよく整理されることとなった。とくに農業分野では互いの融和は進み、そのまま100年もすれば岩井俊二の映画スワロウテイルのように台湾と日本が混成したような島が出来上がったことだろう。

反対に、原住民は銃を取り上げられて狩猟ができなくなり、それまでなかった管理という目の上のたんこぶが付いて回るようになり、おまけに日本語なぞ話さなければならなくなりと、あまり良いことがなかったために血生臭い反乱が続いた。

一般市民は国が豊かになり経済が回り始めると積極的に日本語を学び、本島(台湾)で医者になる者、大学教授になる者、内地(日本)で裁判官など要職に就く者など優秀な人材を多数輩出した。

皇民化教育の部分は別として、主に教育、インフラの面において台湾人にも益がある統治になったというのは事実なのだ。
それまでの台湾では一般市民への教育水準は大変低く、インフラは脆弱で台湾といえばとにかくマラリアと盗賊に犯されたスラムの島だったのだ。
たとえ全ては統治のためとは言いながらも、そこで城の城壁を壊し開放しインフラを整え清潔にしていったというのは、当時の欧米や中国の統治では同じようになったとは到底思えない。

教育が進めば、自ずと台湾人としてのアイデンティティーも芽生えてくる。
自らの民族属性を中華に設定し、抗日運動も盛んになってくる。目指すところは中華圏の独立国家としての台湾である。

戦況が悪くなり戒厳令が敷かれると、このまま異民族の敗戦に巻き込まれたくないという思いも強くなり、また独立運動と粛清で社会が不穏な空気に包まれた。
それは日本のアカ狩りとも通じるところがあったろう。統治権力はいつだって国民が怖いのだ。

敗戦後、大きな暴動などはなかったものの、多くの地域で日本敗戦は歓迎され、それまで差別的な扱いをしてきた者は集団リンチなどの仕返しを受けたという。
ともあれ、これまでの統治時代の富はまるごと置いていかれ、それを礎としてついに台湾が台湾人の手で運営される機会がやってきたのだ。代わりにやってくるという国民党政府は同朋である。日本人という、説教臭いよく吠える犬どもが居なくなるのだ!

当時の日本人はまず道徳と清潔さが抜きん出ていたと言えるだろう。
人間など大差ないのだから、一皮剥けばただの動物であることは変わりないが、少なくとも表面上は道徳的で清潔だった。

だから、最初に国民党軍が上陸してきたその様を見た台湾人は多少なりとも驚いた。軍隊といえば規律が第一と思っていたのに皆一様にくたびれてだらしがなく、鍋ややかんをぶら下げている者までいる。しかし、それでも同じ敵と戦ってきた同朋への労いの気持ちが優っていた。

国民党政府が本格的に始動すると、台湾人がそのままそっくりいただけるはずの日本統治時代の財産は全て国民党に接収された。
国民党政府は日本政府とは違い、台湾人の自治をほんの少しも認めなかった。

台湾市民が民主的な手続きを取って正式に台湾人の権利を訴えたが通らず、あとは2・28事件を機に雪崩を打って白色テロと呼ばれる戒厳令下に突入していく。
粛清された数ははっきりと残ってはおらず、少なくとも4000人は処刑されたようだ。
処刑された人々には主に日本寄りと目されたエリート層が多く、台湾におけるアイデンティティを持った知性はこの時点でほぼ壊滅となる。

生きるためにはまた中国語を学び直さなければならず、日本語を話すと容赦なく罰せられた。
国民党政府は日本のインフラ整備をそっくそのまま自分達の功績であると教育し、日本統治時代はそのまま清王朝の身勝手な統治に置き換えられた。

この時代、どこからともなく湧いてきた言葉は「犬が去って豚が来た」だった。

しかし、日本統治時代に抗日運動として培われた台湾アイデンティティは、裁判官だった兄を粛清され日本に亡命した王育徳によって大事に育てられ紡がれていったのだった。

李登輝総統がなぜ偉大な人物として今も好感を持たれているのか。
それは、国民党政府による数多の同胞の死と抑圧を背景に王育徳が日本で大事に育ててきた台湾独立の芽が、李登輝総統に背負われることで初めて日の目を見たからであった。

日本人が大好きな、美味しくて優しい台湾が、数多の死と不断の努力によって勝ち取られたものであるということを我々は忘れてはならないだろう。

また、たとえ恋愛成就のお寺に行ったとしても、敗戦後も交流を続けてきた両国の絆に手を合わせ想いを馳せるというのも大事なことではないだろうか。

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