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新作小作品販売開始のお知らせ😛


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実のところ、これまで小作品の制作にはそんなに乗り気ではなかった。
販売しました!と言いながらいきなりネガティブな出だしになるが(笑)、一人のアーティストを例としてカネとのスタンスの取り方に興味のある人は読んでもらいたい。
しかし「ライフラインはカネで買うもの」と思っている人にはおもしろくない内容だと断っておく。

乗り気ではなかったのは別に気持ち的に嫌だとかではなく、どこかで「売るための作品」のような気持ちが払拭できなかったからだ。
しかし、とくに何がきっかけでというわけでもないのだけれど、今年からは少し小さめの作品を作ってもいいかなという気持ちになってきたところで、日頃お世話になっている方から小作品制作の後押しをしていただいた。

もちろん自分としては、でっかい作品をバンバン作りまくれれば最高であるという気持ちは今でも根強くある。

とはいえ物理的には片っ端から売れていかなければ作品は手元に貯まっていく一方なので、所有空間に余裕のある人以外は、自身の欲求と社会的な立ち位置との狭間で常に葛藤し続けなければならない。

作品のストック以前にも、でかい作品を作るにはでかい空間が必要だし、それに付随する搬入出の費用や人件費、光熱費など全てのコストが大きさと質量に比例する。

しかし、それでも、でかい作品でなければ俺のパッションが表現しきれんのだーー!!!

という気持ちがだいぶ強かった。これまでは。

とくにモチベーションが下がったとかではないのだが、単純にでかい作品を作ってもなかなか売れないということは、飾ってもらえる場所が日本にはそもそも少ないという事情がある。
無論のこと、探せばそこら辺に空いてるどでかい空間なぞありまくるわけだが、作品を購入したり保存したり所蔵したりすることのコストが単純に日本では過剰に面倒くさがられてしまうのだ。

ビルの所有者なら「そりゃそうだ」と簡単に短期の利益だけで脳内算盤をチャカチャカと弾くのだろうが、それを付加価値に変えることだっていくらでもできるのだ。
何しろ、あまり周知されていないが、美術館の来場者数などから日本人が世界でも有数のアート大好き民族であるというのは知る人ぞ知る話なのである。

つまり、ニーズはある。しかしリスクヘッジと前例主義でこれ以上手も足も出ない、というのが日本でアートマーケットの成長が伸び悩み続けていることの内情であると思う。

まぁ、日本お得意のメディア洗脳でもすれば何でもムーブメントを作ることなんて御茶の子さいさいなのだから、煽れば田舎の高校生までARTを所有しているなんて状況を作るのはいとも簡単なことなのかもしれないが、ともかく「前例さえあれば」という、この極端に保守的な民族性はゲノム的なものなのか否か、時間をかけて観察してみたい。

どこぞの芸能人でも使って「文化を守るのは国防であり国民の義務です」とかアピールすれば、今も今後も右傾化華々しい日本だったら上記の話も夢ではないはず。もちろん悪い冗談だ。

こんなこと書いていると「やっぱ売るためなんじゃん」と思われそうだが、それはそれ、これはこれ。別の話だ。

無論のこと、「売れなくてもいい」とはさすがに言いきれない。とはいえ売るために自分に嘘をつくなら初めからこの道に入ってなどいないし、これ一本で食っていこうなぞ最初から思えない。
そこにはそれ相応の覚悟と忍耐があるのだということだけはご理解いただきたい。

それに、売れればやはり嬉しいものだ。私の場合、関係ギャラリーの事情によって誰が購入したかも連絡先も教えてもらえないことが多いが、個人のやり取りだったり、規約上問題なく教えてくれるギャラリー経由だったりすると購入相手との関係性が生まれる。

よく「顔の見える生産者」というフレーズが商品の売り文句になっているのを目にするが、「顔の見える消費者」というのはあまり見たことがない。
「お互いに顔の見える関係」というのはあるかもしれないが、要するに生産者も消費者もお互い顔が見えて商品(作品)を介しながら温度のある関係性を築けた方が、単純に人間らしく温かさを感じられて良いよね。という話だと思う。

一般的には「顔が見える=安心」と理解されがちだが、実のところ求められているのは破壊されたコミュニティから人間同士の関係性が冷え込み、個人でも家族単位でも大体が直接的にも間接的も、意識的にも無意識的にも、孤独に苦しんでいる中で、ただ単純に人間的な温もりを求める気持ちが働いているだけなのではないだろうか。

そうしたことをつらつらと考えた時に、自然と私の内側から「購入してくれた人が飾りやすい大きさのものも作りたい」という気持ちが湧き上がってきたところでの今回の機会だったのだ。
事実、展覧会場などで「もう少し小さければなぁ」という声を聞かせていただいたこともある。

しかし、これまでは「だからといって小作品を作るというのでは、それでは制作者の妥協であり忖度である。まず表現したいことに則したサイズがあるのであって、サイズに合わせて制作するのならそれはアーティストの仕事ではない」と、多少頑固に凝り固まっていた部分があったと思う。
(コミッションワークはまた別。そこには既に私の作品を元にした明確なイメージを持った心があるから)

もちろん、その考え方は今でも否定しないが、簡単に言えば、もう少し柔軟になってもいいのではないかと思い直したのだ。

私の作品に共鳴・共振してくれた人が、さらに作品の所有を通して日々の生活の中でそのバイブレーションを共有してくれることが、私にとっての作品を通した他者とのコミュニケーショの根幹だ。つまりそれが私の社会との関わり方である。
また、そのコミュニケーションの在り方こそが、私が信じる唯一と言っていいほどの、人間の美点であり救いになると考えている。

私は他者と繋がりたい。共感を共有したい。今なら正直にそう言える。

他者との繋がりを求めないで、どうして表現など成立するだろう。
誰だって心の会話がしたいはずだ。言葉なんて厄介なものを取っ払ったその先に、共鳴と共振の融合が待っている。

とどのつまり、宇宙の調和みたいなことを言っている宗教やヨガなどのメソッドも、結局は共感や共有、共鳴や共振といったものに行き着いた先の「融合」を説いているのだと、最終的には行き着いたのだった。


というわけで、今回はたかが小作品の新作発表といえども、アーティストはこんなことを考えていますよ、という程度のお話。

ただし、このnoteはまったくインフォメーションしていないので、この考えが購入者に伝わるかどうかは謎。
でも別にそれで良いと思ってる。
私は政治的だし社会についての考えを持っているし、それが大体の日本人には鬱陶しいものだと自覚している。だからといって何にも考えないで誰かから意図的に与えられた情報で人生観や世界観を構築するなんて、自分には絶対できないし、そんな自分は許せない。
私の思考性を鬱陶しいと感じる人となど最初から繋がりたくもない。作品も思考も同じ「私」という一存在から生まれ出るものだ。私が仲間だと見なせない、もしくは私を仲間だと見なせない人は私という世界の外側で緩やかに関係していればいい。ただそれだけのこと。

社会が「良い所取り」できないものであると同様に、ARTもそうあるべきだと思う。そのためにはアーティスト自身がもっと政治や社会についての考えを持ち発信するべきだ。
作品は好きだけどこいつの言葉はなー、という人は、パートナーの顔はいいけど中身はそんなに…というのと変わらない。「良い所取り」が成り立たない以上、遅かれ早かれ確実に関係性は破綻する。

社会も内側を曝け出し、議論し、常に痛みを伴いながら「より善きもの」へと昇華させていく意志を共有しなくては「個々の内発性から波及する全体的自浄作用」は生まれない。

全てはそこへの寄与のために、あらゆる人間の表現行為が社会的に存在している。これが私の考えの根幹だ。生きる構えと言ってもいい。

昨年12月に納めた、縦70cm×横100cmのKarmic Code。制作的にはこれくらいが一番丁度良いサイズ

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