小説『夏の呼吸』電子書籍版配信開始のおしらせ
小説『夏の呼吸』の上梓から一年が過ぎ、新たに電子書籍版を配信してもらえることになりました。
『夏の呼吸』 Kindle版
https://www.amazon.co.jp/dp/B08C7YF6X5/ref=cm_sw_em_r_mt_dp_U_ZLwbFbTNCCM4Y
それを記念して、通常書籍版の「あとがき」を、期間限定にて公開します。
(「やっていいですか?」と軽い気持ちで聞いたら、そんな簡単なことじゃなかったようで、関係各位にはご迷惑をおかけしました。陳謝)
電子書籍版の方は「あとがき」の追記もあります。
ご興味ある方は、そちらもお読みいただけたら非常に光栄です。
『夏の呼吸』の頃
「コカ・コーラのトラックの運転手になりたい」
昭和63年。高校3年の夏。
進路指導の三者面談の場で、僕はこう言った。
バイクばかり乗っていた自分が思い描いた将来の展望としては、それはなかなか悪くないもののように思えていた。
けれど、進路指導の先生は、ひどく厳しい顔をした。
「悪いけど、お前を雇ってくれるような会社は、社会には一つもないよ」
同席の母親も、苦笑いしていた。
僕は特にショックを受けるでもなく、その言葉を受け止めていた。
言われても仕方がない。僕は、そういう高校生だった。
お金は出すから専門学校に行けと母親に言われ、家が裕福でないことはわかっていたので申し訳ない気持ちもあったが、その言葉に甘えることにした。
それから2年が過ぎ、卒業は平成3年。世の中は、バブルがはじける直前だった。
面接会場まで辿り着ければ誰でも内定がもらえるような時代で、僕は巨大電機企業のプログラマーになった。
ここまでの人生は、実に幸運に恵まれていた。本心から、そう思う。
プログラマーの仕事も、決して楽ではなかったが、概ね楽しかった。
けれど、この頃から、ある想いにひどく心をかき乱されるようになった。
「このままでは、何者にもなれない」
社会に出て初めて、僕は強くそう実感するようになっていた。
自分には、学歴も、実力もない。
人に甘え、運に頼り、己を鍛えぬままに、ここまで来てしまった。
このままでは、何者にもなれない。どこにも辿り着けない。
今にして思えば、こういう自己卑下に苛まれることは、誰の人生にも多かれ少なかれあることだろう。
けれど、当時の僕はそんなことさえ知らずに、自分の人生に絶望していた。
本作『夏の呼吸』は、そんな時代に書いたものだ。
「何者かになりたい」
溢れんばかりの想いを、この短い小説に注ぎ込んだ記憶が、はっきりと残っている。
自分の能力がどういう水準にあるのか、まだ知らなかった。
けれど、絶えずまとわりついてくる絶望感を振り払うように、毎日ワープロに向かい続けた。
この先に、きっと何かがある。
根拠のない想いを信じて、平塚の6畳間で、僕は孤独な戦いに挑んでいた。
小説が完成し、新人賞への応募を済ませても、僕はまだ自分の実力不足を嘆いていた。
人に評価してもらえる作品を書けるようになるのは、まだしばらく先になりそうだ。
次の作品はもっとああしようこうしようと、頭の中では日々反省会を繰り返していた。
だから、この作品が平成4年度『中央公論新人賞』の最終候補3篇に選出されたと聞かされた時は、まったく正直な気持ちとして、信じられなかった。
最終選考会は一か月後、お盆明けの頃になると伝えられた。
「さすがに受賞は無理だと思うよ」と周りの人間には嘯いていたが、内心は冷静ではいられなかった。
僕は帰省する友人の車で香川まで運んでもらい、そこから一人で四国を一巡りした。
話す相手もいない、列車の旅だ。
僕はずいぶん様々なことを、自分自身と対話したように思う。
この時に考えたことの多くが、今も自分の思考の礎となっている。
結局、本作は受賞に至らなかった。
だが、同時期に芥川賞の選考委員も務めておられた、吉行淳之介氏、丸谷才一氏、河野多恵子氏の三氏より講評をいただく僥倖に恵まれた。
いただいた評価は良いことばかりではなく、どちらかと言えば、僕の未熟さを率直に指摘する言葉が多かった。
それでも、嬉しかった。
やっと誰かに認めてもらえた。
自分の人生が動き出した。
生まれて初めて、強くそう実感した出来事だった。
文章を書くことを生涯の仕事にしようと決めたのは、この時だった。
あれから28年が過ぎた。
僕は今も、あの日の決心の延長線上を歩んでいる。
曲がりなりにも物語を作ることを生業として、僕は48歳になった。
実力不足は、今でも毎日感じる。
けれど、作品を積み重ねるたびに、「ああ、少しはうまくなったかな」と何度も実感した。
きっと、少しはうまくなったんだろう。そう信じたい。
「このままでは、何者にもなれない」
その絶望から解き放ってくれた記念碑的な作品が、28年という長い時を経て、こうして一冊の本として上梓されることは、まったく信じ難い奇跡のように思う。
今回の出版に当たり、僕は28年前の自分と正面から向き合うことになった。
我ながら、青臭くて、白々しくて、ヘタクソな文章だ。
僕は何度も苦笑いした。
けれど、読めば読むほどに、伝わってくる。
「何者かになりたい」
あの日、平塚の6畳間で詰め込んだ必死な願いが、当時の熱を失うことなく、今も確かに伝わってくるのだ。
今回の推敲は、作品が持つその熱を消してしまわないよう、本当に最低限に留めた。
気恥ずかしさを覚えるような青臭い表現も、そのままにしてある。
作中に「ドラゴンクエスト」という言葉が使われているのは、ただの偶然だ。(自分がドラクエのスタッフになるのは、この作品を書いた7年も後のことです)
若い頃の作品というのは、大体の場合が黒歴史だろう。
自分としても、そういう感覚がないわけではないが、この作品を世に発表できることを、とても清々しい気持ちで受け止めている。
せっかくだから、一人でも多くの人に読んでほしい。
今は素直に、そう思っています。
『雨傘』の頃
プログラマーを本職としながら、小説の執筆に時間を注ぎ込む時代が続いた。
僕は25歳になっていた。
様々な表現を試していた頃に、本作『雨傘』は生まれた。
小説を書くプログラマーなど当時はまだ珍しかったこともあり、テクノロジーの世界を舞台にした物語を書いてみようと思い立った。
執筆スタイルも、ここで大きく変えてみた。
一作一作じっくりと時間をかける熟考型ではなく、この物語は一気呵成に書き上げてしまおうと決めた。
その甲斐あって、書き始めから投稿まで、たしか2~3週間程度だったように思う。
当時はフルタイムでプログラマーをしていたのだから、大したバイタリティだ。我ながら感心する。
この頃には、どの程度の水準の物語がどういう評価を受けるのか、おぼろげながら掴めるようになっていた。
この作品は、最終候補に残るか残らないかといったところだろう。
そんな自己評価をしながら、第20回『すばる文学賞』(集英社)に投稿した。
1995年。Windows95が発売された年のことだ。
書き始める前から覚悟していたことだが、テクノロジーを材とした物語は、技術の進歩によって急速に陳腐化してしまう運命にある。
この作品の舞台は、執筆時からさらに数年遡った1991~1992年頃。
スマホはおろか、インターネットや携帯電話さえもろくに普及していなかった、IT革命未明の時代だ。
若い世代の人にとっては、もはや陳腐を通り越して、ファンタジー同然の隔世感を覚えることだろう。
30年近く昔のテクノロジー小説に手を入れるのは、自分としても少し不安だった。
何をやっても、焼け石に水にしかならないだろう。そう思ったからだ。
だが、実際に推敲を始めてみると、意外にも発見が多くて楽しかった。
テクノロジー自体は古びていく一方で、人間の心理や感情の表現は、20年や30年ではほとんど変わることがない。そんな対比が、妙に面白かったのだ。
25歳の自分の文章力は、『夏の呼吸』の頃と比べれば、なかなか成長していた。
現在の自分が見ても一定水準に達していると認められたので、時間をかけて念入りに推敲することにした。
とはいえ、筋書き自体は変えていない。
文章自体を読みやすくするために、現在の自分の技術で言い回しを整えたまでである。
一点、注意書きを。
この物語は、実在したコンピューターウィルスをモチーフとしているが、発症状況などはフィクションである。
劇中に登場するヤンキードゥードルは、当時IBM系のPCでは発症したが、日本国内のパソコンでは感染はしても音楽再生はされなかった。
よって、この物語のような出来事は、現実には起きていない。
この作品は、投稿した『すばる文学賞』にて、3次選考通過の13篇に選出された。
しかし、翌月発表された最終候補作品に、『雨傘』というタイトルはなかった。
予想通りといえば予想通りだったので、特別ショックではなかった。
むしろ、文学賞を取るために必要な作品水準を、はっきりと掴んでいた。
しかも、それは射程範囲内に入っていると感じられていた。
早ければもう数年内に、遅くとも30歳前には、自分は作家になるのだろう。
この頃は、そう思っていた。
あとがき
しかし、僕は作家ではなく、ゲームのシナリオライターになった。
27歳の時だ。
堀井雄二氏のアシスタントとして、ドラゴンクエスト7以降のシナリオ制作に参加させてもらうことになった。
プログラマーと小説の両方の経験を評価したと堀井さんから言ってもらった時は、なんとも言いようのない喜びを覚えた。
自分がやってきたことは、間違いではなかった。そう伝えてもらったような気がしたからだ。
堀井さんの見込みは正しく、プログラマーと小説の経験は、ドラゴンクエストの開発現場でどちらも大いに役立った。
僕は毎日仕事が楽しくて、家に帰るのも忘れるほど夢中になった。
小説からは離れることになってしまったが、それを悔やんだことは一度もない。
ドラゴンクエストの仕事は、それを補って余るほど楽しい仕事だったからだ。
シナリオアシスタントだった僕は、5年後にドラクエ本編のディレクターに抜擢された。
それから、10年。
ドラゴンクエスト10のバージョン1のディレクターを最後として、僕はドラゴンクエストの全仕事から引退すると決めた。
この頃が、42歳。
ドラクエの仕事を始めてから引退までの15年間は、今振り返ってみても、まるで時間が止まっていたのかと錯覚するほど一瞬の出来事だった。
それが自分の人生の一部だったことが、時折信じられない気持ちになることがある。
きっと、それほど夢中だったのだろう。
長らく小説から離れていた自分が、本書の出版に至ったのは『予言者育成学園 Fortune Tellers Academy』というゲームが繋いでくれた縁のおかげだ。
自分が初めて手掛けたオリジナルゲームで、未来に起こる出来事を大勢で予想するという異色の内容なのだが、ストーリーパートが小説形式で展開する。
小説というよりは『小説とゲームの中間』のような物語だったが、昔取った杵柄とばかりに楽しんで書いていたところ、幸いにも多くの方から高く評価してもらえた。
これが縁となって、シナリオ制作の依頼をいくつも打診いただいた。
本書の出版の話も、そうしたご縁から生まれた。
もともとは予言者育成学園のストーリー自体の書籍化から始まった話が、紆余曲折を経て本書の出版の話へと繋がった。
(『予言者育成学園 Fortune Tellers Academy』は現在ではサービスを終了しており、書籍化の話も消滅しています)
どの道がどこに繋がっているのか、まったくわからないものだ。
本書の推敲に取り組んでいるうちに、新たな衝動が自分の中に芽生えているのを感じた。
今度は、新作の物語を書いてみたい。
実現できることかはまだわからないが、この想いは消さずに持ち続けよう。
「何者かになりたい」
今もまだ、そんな夢の途中だ。
◇
本書の出版に当たって、カバーイラストの絵師には典樹氏を指名させていただいた。
氏は、予言者育成学園制作時に活躍してくれたイラストレーターで、私の心に迫るキャラクターをいくつも生み出してくれた恩人だ。
自分が初めて発表する本ならば、その表紙は是非彼に描いてほしいと念願していた。
快く引き受けていただけたとのことで、嬉しく思っています。ありがとう。
また、予言者育成学園の書籍化の提案から始まって、本書の出版までを実現してくれた編集者の方がいたことに触れておきたい。
皆様のご尽力なくして、死蔵されたまま終わるはずだった本作が日の目を見ることはありえませんでした。心より感謝しています。ありがとうございました。
2020/7/8
藤澤 仁
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