F田Jん

思ったことを文章にします。

F田Jん

思ったことを文章にします。

最近の記事

詩の形式による神の崇拝

お願いします神様 どうかぼくを 愛さないでください。 ぼくを奈落の底に落としてください 希望をこれ以上 見出したくないのです。

    • 渋谷スナップ vol1

      • 余白についての考察。幾つかの写真を添えて。

         最近「こんなところにも広告が…」と思う時が増えてきた。簡単に言えば、余白の喪失である。東京、特に渋谷を歩いていると常に視界にはなんらかの情報が飛び込んでくる。休息がないのである。資本主義が暴走してるなぁ…と思う。ありとあらゆるものを活用して利益を最大化するのが資本主義であるが、いよいよ我々の視界すら商業に利用されている。広告とは人間の意識にお金を払う行為のことである。(アンチキャピタリストみたいな文章だな。)しかも、広告の情報は一方的な情報の強要であり、相互的な情報のやり取

        • 『社会』と言う言葉について。

          社会、英語で言うところのSociety。 一体どこからどこまでがその範囲に含まれるのかというのは、その前後の文脈により異なる。それは一つの地域、一つの国、あるいは全世界を含むこともある。その定義は流動的である。 複数の人間が共に存在している場合、それは社会と呼べるのだろうか。たとえば、一つの家族、町内会、あるいは企業内の人間関係など、これらは一種の小さな社会と言えるのかもしれない。それとも、もっと広範で複雑な人間関係を包括するものでなければ社会とは呼べないのだろうか。 『

        詩の形式による神の崇拝

          忘れられる恐怖。信仰。写真。

          忘れられてしまうのが怖い。忘却とは死である。 今回はそう言うお話です。 人間の本質は記憶であり、そこから追い出されるのは辛い。 楽しかった友人との生活も、なんとかなく楽しいというふんわりした記憶しか残っていない。顔も頑張らないと思い出せない。 その口調も、仕草も、口癖も、忘れてしまうのかもしれない。 忘れてしまう恐怖を忘れられない愚者は私である。新生活が悪いわけではない。ただ私がノスタルジアに潰されそうなだけだ。人間はその意味で言えば、根本が宗教的な生き物である。これは

          忘れられる恐怖。信仰。写真。

          フィルムカメラについて。

          無機物に少女性を感じるのは私だけでないと信じたい。 初めて自分で購入したカメラはOlympus Trip 35だ。明るさが足りないときはお知らせしてくれる良い子だった。九州旅行に友人と行った際、リュックの中で缶が破裂し水没してしまった。 フィルムカメラはデジタルカメラや携帯が普及した現代では、もはや宗教や政治思想に似たものを感じる。所謂懐古厨。 まず第一に管理が面倒である。 当時は水銀電池が主流であり、今中古として流通しているフィルムカメラの内部の大部分は水銀漏れで腐食し

          フィルムカメラについて。