余白についての考察。幾つかの写真を添えて。

 最近「こんなところにも広告が…」と思う時が増えてきた。簡単に言えば、余白の喪失である。東京、特に渋谷を歩いていると常に視界にはなんらかの情報が飛び込んでくる。休息がないのである。資本主義が暴走してるなぁ…と思う。ありとあらゆるものを活用して利益を最大化するのが資本主義であるが、いよいよ我々の視界すら商業に利用されている。広告とは人間の意識にお金を払う行為のことである。(アンチキャピタリストみたいな文章だな。)しかも、広告の情報は一方的な情報の強要であり、相互的な情報のやり取りではない。


 現代人が海とか山とかの自然物に心惹かれるのは、常日頃の過剰な情報摂取によるのもだと考察する。要するに、ぼーっと眺めることが承認される空間、つまり余白を人間は欲しているのだろう。その様な自然環境は人間が自由に認識できる物であるのもその一因であろう。かつてはその様な空間があったのだろうが、現代(特に都会)にその様な空間は承認されていないだろう。お金を支払えばその様な環境は手に入るが、ぼーっとしても良い空間を買うという行為も金銭が発生するので資本主義的と言える。


 その様な余白は、現代において宗教施設に求められると考察する。現代日本において、寺社仏閣など宗教施設における本来の役割は失われていると言える。にもかかわらず寺社仏閣は現代日本において存在できている。それはやはりぼーっとしても良い空間を提供できているからであるのではないだろうか。(お賽銭は払いましょう。)

 こんな文章を書いていたら、ルコビュジェというモダン建築家について思い出した。

『モダニズム建築の旅』より引用

 彼は風景と意識をうまく活用したモダニズム的建築を多く残した。彼が両親に捧げた通称『湖の家』は風景をあえて切り取り、意識の向き先を限定することで、そのダイナミズムを強調している。

書く気が失せたのでここで終わる👋


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