フィルムカメラについて。

無機物に少女性を感じるのは私だけでないと信じたい。
初めて自分で購入したカメラはOlympus Trip 35だ。明るさが足りないときはお知らせしてくれる良い子だった。九州旅行に友人と行った際、リュックの中で缶が破裂し水没してしまった。

フィルムカメラはデジタルカメラや携帯が普及した現代では、もはや宗教や政治思想に似たものを感じる。所謂懐古厨。

まず第一に管理が面倒である。
当時は水銀電池が主流であり、今中古として流通しているフィルムカメラの内部の大部分は水銀漏れで腐食しているので、それを清掃しなくてはいけない。フィルムも繊細であり、湿気に非常に弱いため、専用のケースに入れなければならない。
第二に、敷居が非常に高い。
まず、フィルムが36枚撮りで二千円以上する。ふざけるな。FUJIFILMくんはもう少し生産数を増やすべきである。さらに現像に二千円かかる。非常にブルジョワ的趣味と言えるだろう。そして、レンズは全てマニュアルフォーカス。一回撮ったら撮り直しの効かないシビアな撮影だ(そのシビアさに心を惹かれるのかもしれない)。

しかし私がフィルムカメラを使い続けるのはやはり、『光を保存する』というフィルムカメラそのものの仕組みと、それに付随する『魔力』とでも言うべき魅力に惹かれるからであろう。

フィルムを入れる。フィルムを巻く。ファインダーを覘く。シャッターを切る。

この動作をしなければフィルムカメラは動かない。そこに存在するのは、確かな私という生物と現実世界の交差だ。シャッターが切れる音を聴くと生を実感するのである。

デジタルデータは加工が便利である。極論ではあるが、行ったこともないところも描画できる。インターネットの海に一次的と言えるデータは幾つ存在しているのだろうか?フィルムカメラは自分自身と言うフィルターすら貫通して、世界を映し出す。存在するのは、レンズとフィルム、光だけである。情報が氾濫している現代社会において、フィルムカメラを使うのも悪くはないのではないだろうか。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?