『社会』と言う言葉について。

社会、英語で言うところのSociety。
一体どこからどこまでがその範囲に含まれるのかというのは、その前後の文脈により異なる。それは一つの地域、一つの国、あるいは全世界を含むこともある。その定義は流動的である。

複数の人間が共に存在している場合、それは社会と呼べるのだろうか。たとえば、一つの家族、町内会、あるいは企業内の人間関係など、これらは一種の小さな社会と言えるのかもしれない。それとも、もっと広範で複雑な人間関係を包括するものでなければ社会とは呼べないのだろうか。

『反社会』という概念について。果たしてそこには社会が存在しないのだろうか。反社会とは、社会の規範やルールに反する行為を行うことを指すが、その行為自体が社会の存在を前提としているからこそ「反社会」と呼べるのではないか。

社会が消滅するということはあり得るのだろうか。人間がいなくなった場合、社会というものは存在しえない。しかし、人間が存在し続ける限り、この問いに対する答えは見つからないだろう。

社会的コミュニティに良し悪しは存在するのだろうか。これは適用される価値観による。一部の人々から見れば良いと思われるコミュニティも、他の人々から見れば悪いと思われるかもしれない。その評価は主観的であり相対的である。

人間という存在(あるいは現象)が存在し続ける限り、これらの問いは終わることがないだろう。自身がコミュニティに属しているという自覚は、アイデンティティを構築する基礎であり、なくてはならない意識である。地縁や血縁という身近な例を挙げると、日本人であるという意識もその一例である。(それがナショナリズムであると指摘する人もいるだろうが、その良し悪しの判断はここではしない)。

祭りや冠婚葬祭は、五穀豊穣や無病息災、その他のイベントを依代にはしているが、本質は地縁血縁に基づく関係の構築と維持である。これらの儀式や行事は、人間が単一の個体ではなく、群れで生き、足りない部分を補いながら生きる生き物であることを示している。それゆえに、関わりというのは生存に直結するのである。

しかし、すべてのコミュニティが人間にとってプラスに作用するわけではない。時にはコミュニティが人間にとってマイナスに作用する場合もある。その良し悪しを自分で判断するのは好きではないので、話題のchat gptに問い合わせてみた。

『コミュニティの良し悪しは、参加者の相互作用、情報共有、コミュニケーションの質、目標達成度、そしてそのコミュニティが提供するサポートとリソースの量や質によって測定されることが多いです。』

この回答はいかにもAIらしい、当たり障りのない文章だ。しかし、その要素が測定可能なものだと認識しているあたりAIらしい。人間の感情や主観を排除した、冷静で客観的な視点を持っている。

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