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【書と評】教皇とダライ・ラマ

最近仏教のテキストをよく読んでいる。梅原猛が編集をした「仏教の思想(12巻)」を読んで、末木文美士とか木村元などにアクセスして、印→中→日の仏教の流れを概ね把握した。鈴木大拙が編集している「講座 禅(8巻)」をつまんで、鈴木大拙の直接の著作の方が良さそうだと、大拙の全集を読んでる。大拙は彼自身が深い。

人が宗教に求めるものは「救済」だ。現世での救済か、死後の救済か(キリスト教でも仏教でも与えられる救済は各派異なる)は違うが、本来救われるべき何かを人が持っていて、それを掬い上げてもらえるという願いのような思想だ。ただ、面白いものでその救ってもらえる素質のようなものをそもそも人間は持っているとどの宗教でも考える。キリスト教ではそもそも人は神によって形作られたのであるし、仏教では人の救われる素質のようなものを「仏性」という。

救われる原資のようなものを罪が邪魔しているので、または仏性を煩悩が妨げるので、宗教であったり修行であったりが必要とされるのだが、そもそもの救いの種や仏性は人の煩悩や罪や苦しみの中にあるように思えてならない。一切皆苦であり原罪を背負って産みの苦しみの元生まれてきた我々を、「共感」と「同情」が突き動かすのである。苦しみの元にある共感は「共苦」(Mitleid=ミットライト)だ。

仏教では「慈悲の心」を大事にする。慈は慈しむこと、つまり相手が健やかであることを喜ぶということだ。非を「共苦」(Mitleid=ミットライト)と呼んで「compassion」と訳してきたのはダライ・ラマで、まさにcom=「共に」、passion「苦しむ」である。日本にも訪れた新しい教皇フランシスコは回勅「ラウダ―ト・シ」で人・自然環境・動植物全てにその思いやりを広げることを求めていた。つまり「慈悲」とは、喜ぶ人と共に喜び、悲しむ人と共に悲しむという心なのだ。

 教義やシステムは救いを謳って苦しみを忘れさせてしまう。発端は神や仏ではなくて、苦しみだ。今の資本主義システムに対してダライ・ラマも、フランシスコ教皇も警鐘を鳴らすのは人の苦しみがそこから抜け落ちるからである。フランシスコ教皇は「ラウダ―ト・シ」の中で、再生エネルギーの開発協同組合を推奨し、カーボン・クレジット取引は投機的で本質的な解決策を生まないと述べている。ダライ・ラマは経済発展は互酬的経済関係でなく、等価交換的経済関係によって、自分の将来が周りの人々と共にではなく、仕事や雇用人に依存する感覚が生じることで、経済社会に共苦が取りこぼされているのだと述べている。テクノロジーや方法は、欲望や正しさに根ざすのではなく、不足や苦しみに根ざすべきなのだ。そもそも。

共感するためには知らなければならない。被災地や戦地の跡を巡るツアーを「ダーク・ツーリズム」と呼ぶそうだが、福島を巡るツアーは「ホープ・ツーリズム」と呼ばれている。きっとダークと呼ぶには現在進行形過ぎるのだろうけれど、答えが出せないこと、救いを提示できないものから目を逸らしてはならない。共に苦しむことと、同じようにあれないから気まずく思うこととを怖がってはいけない。

余談だけれど、僕は小学生の時に一番最初に飼ったのがネコだった。ヘブライ語で「レウウィー」という名前をつけた。「共になる」という意味を持つ言葉だった。

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