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【共読】「夜間飛行」サン=テグジュペリ 第2回 を終えて

「五感をひらく」という読書会を始めてもう4年目になる。元々読書が黙読を前提とするようになったのは、活版印刷が普及して本が当たり前になったこの100年ほどのことで、それ以前は本も声に出して読んでいたし、言葉というものは声と共にあった。

そんな少し古くて、でも根源的な方法で、ちょっと特別な本と向き合いたいとこの会を始め、その最初の呼びかけに応えてくれた人と共催で、本を読み継いできた。当初は庭園のある公共の多目的室で開催していたのがこのコロナでオンラインでの形式となったが、逆に遠方からも参加できるようになり、メンバーが広がりつつある。

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先月12月からサン=テグジュペリの「夜間飛行」を読み始めた。「星の王子さま」で高名な著者だが、飛行士というものに憧れ続け、自身もパイロットとして飛び続け、何度も不時着で死にかけ、最後はとうとう帰らぬ人となった。サン=テグジュペリが3歳の時にライト兄弟が初飛行をしたのだから、世界の英雄的行為の一端が飛行機にあったのだ。

「夜間飛行」の舞台は第一次世界大戦が終わった後の航空郵便の会社である。鉄道網に勝つために夜を徹して飛ばねばならず、戦争が終わった後は苛酷な自然との戦いが繰り広げられるのだ。社長のリヴィエールは、パイロットが天候の都合で飛べなくても、スケジュール違反としてペナルティを課すことで、少しの晴れ間にも競うように飛び立つ精神を飛行士にも整備士にも持たせることが自分の務めだと思っている。

郵便職員が手紙を大量に捨てていたり、宅急便の職員が荷物をぞんざいに扱っていたりすることが時折ニュースになるが、そこまで追い詰める会社という組織の構図は今と大差ないのかも知れない。ただ、リヴィエールのやり口は中々へヴィだ。管理職でとても退屈な男ロビノーが(リヴィエールは彼を自分で考えないから役に立つと評した)、突発的で激しい嵐をことなげに乗り越えて見せる飛行士のペルランを食事に誘って仲良くなろうとした時に、「命をかけた職務に従わせるのは友情によるのではない」と言って、白紙の始末書を渡して理由は何でもいいとペルランに罰を与えさせたのだ。

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何がリヴィエールをそこまで駆り立てるのか。とても美しい夜も、飛行機にトラブルがあって飛ばない夜にはそれが恨めしく感じられ、飛行機が飛ぶとまた美しい夜空に戻る。それを指揮しているのが自分だという責任とプライドが彼の背中を押している。

(ちなみにこの夜空の描写、二木麻里訳はとても美しい。堀口大学が【彼は恨めし気に、窓から眺めやった、星影ゆたかな良夜の空を、空費された良夜の金貨のような月、あの空の暗礁標を。】と訳している箇所を、【空 は晴れ、満天の星が煌めいている。この星々、聖なる道標。この月、浪費さ れたみごとな夜の金貨。それを窓から恨めしく眺めた。】と訳している。倒置法も対象的な表現も見事だ )

リヴィエールは自分が厳格で彼らを追い込んでいるから、彼らは怠けずそして仕事を愛するのだと考えていた。部下を苦しめようとそれが喜びにつながると信じている。リヴィエールは「ひとは追い込まなければだめだ」と思っていた。「苦しみと喜びが共に待つ、強い生にむけて追い込んでやらなければだめだ。それ以外、生きるに値する人生はない」

堀口大学訳では最後の箇所は「苦悩をも引きずっていく強い生活に向かって彼らを押しやらなければいけないのだ。これだけが意義のある生活だ」となっている。原文で < la vie > であろう言葉が堀口では「生活」に、二木では「人生」になっている。この言葉を分かたないフランス語とその思考、と言うと言い過ぎかも知れない。本居宣長は生活の手段としての医学と、思想を突き詰める学問とを厳しく峻別した。几帳面に残していた処方の記録を「済世」録と名づけていたが、国学の分野では決して「済世」という言葉を使わなかったのだ。

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部下のロビノーはリヴィエールに「あまり頭がいいとは言えない。だからこそ役に立つ」と評される男だ。面白いのが、彼の人生も灰色に表現されていることだ(いや、全体的にリヴィエールだって飛行機というものに打ち込んで、癒しのない人生を誇らしくも思いながら寂しくも感じているのだけれど)。飛行機は冒険と危機に陥るけれど、彼が相手にしている会社というものは危機から救ってやりたいと願ってもどこにも危機なんかありやしない。打ち明けて共有したいものはしつこく彼を悩ませる湿疹だし、おかしなワイシャツに貧相な愛人の写真は「心の湿疹」と表現されているくらい惨めだ。

ロビノーにはとても大事にしているサハラ砂漠から持ち帰ってきた石があった。ブラジルにも同じ石が見つかる。飛行士のペルランにうっとりしながらそう語るのだが、彼にはまったく響かないのである。

この下りで読書会の仲間の一人が、「夜間飛行」の前に皆で読んだ「影をなくした男」を思い出した。「影をなくした男」を書いたシャミッソーはフランス貴族だが流浪してドイツ語で作品を書いたのだ。「影をなくした男」は影と引き換えに簡単に富を手に入れる。だが、名声は簡単にはいかず、影がないことで周りからは後ろ指さされ、ずっと社会に受け入れてもらえない。彼がすべてを諦めて、もう影も富もいらないと悪魔に背を向けたところで偶然、一歩踏み出すと七理進むことができるブーツを手に入れて、世界の博物をみて回ることに < la vie > を見出すのである。

その、最後に残されたものも、それを見る人の態度によっては矮小になるのだと言えるかも知れないし、どんな人にも彼が生きている自然というもののささやきは残されているとも言えるかも知れない。フランクルが強制収容所で疲弊し押しひしがれた囚人たちが、自然の美しさにはどれほど疲れていてもどん欲だと述べていることも思い出した。強制労働で疲れ果てていても誰かが「今日の夕陽はすごい。これを見ないのは損だ」と言えば、皆が外に足を向けたのだった。

人生を自分で組み立てているリヴィエールは、却って美しい夜空もそのまま楽しむことはできない。飛行機が飛ばない日には美しい夜にもケチがつく。逆に街の明かりでほとんど星が見えない時も、自分の会社の2機の飛行機が飛んでいれば、夜空すべてに自分が責任があって、かすかにしか届かない星の光も、そんな自分へのメッセージとして受け取るのである。

どちらの人生が果たして豊かなのか。それはまだ分からない。最後まで読み終えた時にはっきり結論が示されるのかどうかすら分からないけれど、自分なりの結論は出せるだろう。惨めな会社の歯車のロビノーと、権威ある飛行郵便会社の社長リヴィエール。2つの < la vie > の行方を追っていきたい。

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「夜間飛行」は一カ月に一回ペースで後3回かけて読み通していく予定です。ご興味ある方はお気軽に下記よりお問い合わせください。

https://form.os7.biz/f/e437b2a0/

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