見出し画像

【抜粋紹介】杉がつちかった日本文化 —江戸の杉利用 /「日本の原点シリーズ 木の文化①杉」より

寺社の参道の立派な並木や建築材など、わたしたちの身近にある。国産材として人気の杉ですが、その歴史は古く、縄文時代や弥生時代の遺跡から、建造物として使われた杉が出土しているそう。

古来からなじみのある杉ですが、長い歴史の中でどう日本の文化にかかわっていたのか、江戸時代のお話をひとつ紹介します。
書籍『日本の原点シリーズ 木の文化①杉』より「杉がつちかった日本文化-江戸の杉利用」(石川英輔 著)の本文抜粋です。

江戸時代の道具は、現代のようにプラスチック製や金属製ではなく木製が多かったことから、液体の保存はどんな工夫をしていたのか。また、樽と桶の使い方の違いなど興味深い内容もあります。どうぞご覧ください。
※市町村名・語句などは発行時の本文のままです。

【抜粋紹介】江戸の杉利用/石川 英輔

四谷丸太

東京二十三区の一つに杉並区がある。杉並という地名は、江戸時代初期のこのあたりの領主が、地域を東西に横断する青梅街道沿いに杉並木を植えて境界を定めたことに由来するそうだ。甲州街道の内藤新宿、つまり現在の新宿を出て甲府に向かう最初の宿場が高井戸宿だった。高井戸は、今では東京の市街地になっていて農村の面影さえないが、江戸時代の高井戸は、建築用杉材の産地だった。

高井戸の杉の植林は、最初から本格的な林業を目指していたのではなく、農家の周囲に植林するいわゆる屋敷林から始まった。杉並区付近は実際に杉の生育に適した土地だったらしく、材木の大消費地である江戸の杉材需要に合わせて次第に林業として発達していった。高井戸の杉は、建築用といっても板の材料にする材ではなく、丸太が主力だった。

普通より苗を密植して、植林後十二年目頃から間伐を始め、毎年少しずつ切りながら植林し、四十年までに全部切る。つまり、四十年より古い木は残さないが、次々に植林していくから、四十年以下の太さがすべて揃っていた。

十二年目の間伐材のうち細くて真っ直ぐなのは、船の竿用に売れた。江戸は水路の多い都市だったから、竿の需要も多かった。船の竿には竹竿も使ったが、水深の深い場所や大きな船では重みのある杉の方が使いやすかったそうだ。昔の絵を見ても、船頭が杉と竹の竿を使っている場面を描き分けている。節が多かったり曲がったりしているのは、建築の足場用だった。江戸は火事が多かったので、足場の需要も多かった。良質の太い丸太は、磨き丸太、丸柱、面皮柱などの建築材になった。

高井戸は、江戸府内から外れた農村部だったが、日本橋からわずか十五キロぐらいの距離である。運賃の安さが圧倒的な強みになるから、伝統的な産地と板材で競合せずに、地元の利を生かして需要の多い丸太の産地として発展し、江戸の住民は、いわば地元産の杉丸太を使って暮らしていたのだ。

高井戸の杉丸太は、四谷丸太という名前で出荷していたそうだ。くわしいことはわからないが、甲州街道沿いの新宿あたりに営業所を設けていたのではないかと想像している。四谷は、現在のJR新宿駅からJR四谷駅あたりまでの広い範囲の地名だった。

杉と樽と桶

大都市近郊の高井戸あたりで杉専門の林業が成り立ったのは、杉に対する膨大な需要があったからだ。今では、プラスチックか金属あるいはガラス製になってい道具類は、江戸時代というより昭和の敗戦前は木製の場合が多かったが、中でも杉製品の用途は多く、広い範囲にわたっていた。しかし、限られた紙面であらゆる杉製品について説明することはできないので、ここでは、樽と桶について説明する。

今は、液体を入れる容器の主流が、ステンレスやプラスチック類になったが、かつては杉材を使った樽や桶が圧倒的に多かった。樽と桶は、いずれも円形の底の周囲に板を立て並べ、たがで締めて水が漏れないように作ってある点は同じだが、用途によって樽と桶を使い分けた。たとえば、酒樽・醤油樽・味噌樽といい、寿司桶、風呂桶、洗い桶とはいうが、酒桶、風呂樽とはいわない。

樽と桶の違いは、使う材が板目か柾目まさめかによる。樽は液体の貯蔵に使うために、板目の板を使う。つまり、材の年輪が板の面に対してほぼ平行に通っている杉板を使うので、液体がしみ出したり蒸発したりしにくい。これに対して、桶は必ずしも液体を入れるとは限らず、入れたとしても貯蔵が目的ではないので、板の面に対して年輪が直角に通っている柾目板を使う。柾目板は、板目板より水を吸いやすいから、たとえば、寿司を入れて運ぶときには湿気を吸収して蒸れにくいし、風呂桶としても肌触りが良い。

酒樽だけは今も実用目的に細々と生き残っているが、市販の醤油樽はもう見かけなくなった。酒樽は、おめでたい時に鏡割りをするのに使ったり、縁起ものとしてこもかぶりを使うなど、まだいくらかは伝統的な用途があるものの、醤油には実用以外の用途がないからだ。また、酒はしみ出しにくいが、食塩を含む醤油はしみ出しやすいため、醤油樽の製造は酒樽よりずっとむずかしいという話を聞いたことがある。

このように、樽は、今ではほとんど使われなくなったが、江戸時代は、ある程度以上の量の液体を扱う場合にはもっぱら樽を使っていた。たとえば江戸へは上方つまり関西からの<下り物>として毎年大量の物資が入荷していたが、樽で運ぶ商品の量は、享保十一年(1726年)には、酒一七万八〇〇〇樽、醤油一〇万一〇〇〇樽、油七万樽にも達していた。いずれも、杉樽に詰めて船で海上を運んだのである。

もちろん、販売にも樽を使う場合が多かった。酒を例にあげるなら、大量に使う家では自家用の<家樽>を持っていて、樽が空になれば酒屋が取りに来て酒を満たして戻した。酒樽といえば、現代人は一斗(一八リットル)以上の大きなサイズを考えるが、昔は一升、五合などの小さな樽があって、今の一升瓶を使うような感覚で利用していたのだ。

酒樽の材料になる杉材は、関西からの下り酒の樽を流用したのではないかと私は考えている。下り酒の樽は四斗樽なのに、江戸で流通していた酒樽はほとんどが一斗以下だったから、そう考えれば筋が通るからだ。江戸には<明樽あきだる問屋>が五十軒ほどあったが、そこに所属する樽大工が、四斗樽を分解して小型の樽に作り直したと考えれば辻つまが合う。

明樽問屋とは、関西から下って来る膨大な量の樽が空になったのを扱う専門商社だが、こうすれば、樽用の杉材のためにわざわざ運賃を払わなくても良質の吉野杉の材が手に入る。しかも、すでに規格サイズにできているのを小さなサイズに切る手間だけで小型の樽に作り替えられるため、良質の樽を安く大量に供給できて江戸の需要を満たした。

たが屋

台所で食器を洗う容器を今でも<洗い桶>という場合があるように、かつては水を溜めるための容器、たとえば顔を洗う洗面器も平たい桶を使っていた。プラスチックの容器と違って、木製の桶は使っているうちにたががゆるんで水が漏るようになる。たがも竹製なので、長い間には水を吸って伸びるからだ。

江戸の市中で使う桶や樽は膨大な量だったから、この修理にも大きな需要があって、樽や桶を修理する専門の職人<たが屋>が大勢歩き回っていた。水漏れする桶や樽のある家に頼まれると、古いたがをはずして新しいたがに替え、しっかり締めて再生した。たが用の割竹を大きな輪に丸めて肩にかけ、道具箱を担いでいるたが屋の絵はたくさん残っているので、今でもその仕事ぶりがよくわかる。

同じ杉材を使いながら、用途によって樽と桶を使い分け、水漏れすれば専門の職人が修理するのが、資源を大切にしながら徹底的に利用する日本の伝統的な生き方だった。破滅型の化石燃料文明と違って、人が手間をかけた植物資源に支えられていた文明は、構造の上から見ても現代文明の抱えているさまざまな欠陥がなかった。偉そうな顔をして昔の人を批判する前に、自分たちの生き方を真剣に反省するべき時がきているのではないか。
(『日本の原点シリーズ 木の文化①杉』より抜粋)

ーーーーー
上記のほかにも、杉について幅広く解説している1冊です。
好評発売中!

※書籍「」については、以下のnote記事もご参考に