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最愛の母を亡くしておもうこと

はじめてnoteを書かせていただきます。お邪魔いたします。
今年、2022年6月に最愛の母を亡くしました。脳腫瘍でした。
ご家族が同じ病気でお辛い思いをされている方や、今後を不安に思っている方の参考になることが何かあれば、という気持ちで、余命宣告から約1年半のことを振り返ってみようと思います。
脳腫瘍に限らず、大切な人が病気になったら、「できること、してあげたいこと、思いついたことは、すぐにやる」。後悔をひとつでも減らすためには、これに尽きるなあと、今となってはそればかり考えています。
※脳腫瘍の患者さんがどのような最期を迎えるのか?の一例だけお読みになりたい場合は、最後あら3番目の「さいごのひ」の段落だけお読みください!振り返りながら書いていたら長文になってしまいました。

病名発覚から手術・余命宣告

2021年2月のことでした。
実家の解体と両親の別居を目前に、体調面で気になることは住み慣れた町のかかりつけ医に相談しておこう。と、整形外科を訪れたところ、「神経系の病気かもしれない」と大きな病院への紹介状を書いてもらうことになり、その足で指定の病院へ。
CT検査を行い、即入院。
我が家は全員大きな怪我や病気をしたことがなかったため、その時点で絶句状態でした。1週間の入院の後、脳腫瘍の疑いがあり、その病院ではそれ以上の検査と治療ができないことを告げられ、さらに紹介状を書いてもらい大学病院へ。2月半ばに入院し、3月初頭に手術を行いました。
この時点まで、わたしはなんだかんだ言ってもどうにかなるんだろう、と楽観的に考えていました。お医者さんは考えられる可能性のうち悪い方を言うものだ、という印象があったし、何より、母がそんな重大な病気にかかるなんて、と気持ちが現実逃避していたのもありました。それに、癌は治る時代だ、というのも、よくニュースなんかで見ていたし。
手術後、主治医から告げられた余命は1年から1年半、でした。病名は「神経膠腫」のグレード3。一般的な癌で言うと、すでに末期癌、とのことでした。
つい先日まで、自分で車を運転していたし、いつものようにランチにも出かけていたのに。信じられない気持ちの一方で、CTスキャン画像を見ながら淡々と説明する医師の言葉に、これは現実なんだ。と認めざるを得ない状況に、涙が止まりませんでした。
このときにわたしが主治医に聞いたことは、次のふたつです。

  1. 旅行に連れて行ってあげても大丈夫か?

  2. 痛い、苦しいといった病状はあるのか?

【1】に関しては、治療のタイミングによっては免疫力が大きく低下するため、退院直後は避けた方がいいが、認知機能が低下してしまう前に連れて行ってあげた方がよい、とのことでした。母の場合は退院が5月だったため、6月は梅雨、7月からは暑いし…と、母を気遣うつもりで先延ばししてしまいましたが、今思うと退院直後に行っておけばよかったな、と少し悔いが残ります。
【2】に関しては、最期には意識がなくなっているし、腫瘍の位置やでき方からして、身体的苦痛を感じることはない、と言われました。それを聞いて、少なくとも苦しみながら逝くことはないのだと安心したことを覚えています。ただ、病気が進行していく過程では「この先自分はどうなってしまうんだろう」という不安があったはずなので、認知機能がまだ働いていた時期は、どれほど毎日恐ろしかっただろうと、母の気持ちを考えると今でも涙が溢れます。

家族と話し合って、母本人には病名も余命も告げないことを決めました。
…その手前で、余命宣告をされたときはわたし一人だったので、家族にも「もう長くないようだ」としか言えませんでした。わたしの口から言葉にしてしまったら、認めたくない事実が確定してしまうような気がして。

ちなみに、腫瘍の位置やでき方によって、脳腫瘍は症状や呼び名が異なるようです。母の場合は前頭葉を中心に、塊ではなく脳細胞にしみわたるようにできるタイプだったため、手術で取り除くことはこの時点ですでに不可能でした。

退院後の生活

手術後は体調の回復を待って、GWに退院となりました。
入院中はコロナ対策のため面会は一切できず、スマホでのビデオ通話しかできなかったため、顔と顔を合わせるのは約3ヵ月ぶりのことでした。姉に支えらながらではあるものの、しっかりと自分の足で歩く母を見てほっと胸を撫でおろしました。「なーんだ、やっぱりお医者さんの脅しか!」と。
もともと2月の段階で諸事情あって父と別居することになっていたので、退院後は予定通り母は一人暮らしとなりました。姉が徒歩5分の距離に暮らしているため、これだけ足取りがしっかりしていれば問題ないだろう、と思いました。
まさか母が自分で自分の世話をできなくなっていくなんて、夢にも思わなかったので、ちゃんと歩いている姿を見ただけで「元のお母さんだ」と安心しきってしまったんですね。これが大きな間違いでした。
わたしは元々都内で一人暮らしをしていたため、週末に母の様子を見に行き、平日は在宅勤務の姉が朝・昼・晩と世話を見る生活が始まりました。最初のうちは駅前で待ち合わせてランチ、ということができていたので、土曜か日曜のどちらかだけ母と過ごし、母のところへ行かない日は自宅でゆっくりしていました。歩行に不安がある以外に、はじめのうちは目に見える変化がなかったのです。
次第に、お手洗いが間に合わないことや、転倒する回数が増え、歩ける距離は減っていきました。何て声をかけてあげたらいいのか、どう対処してあげたらいいのか、まさに暗中模索です。このとき母は介護認定で要介護1でしたが、そういった何気ないことでも、ケアマネージャーさんに相談してみればよかったです。人に迷惑をかけることを極端に嫌う性格の母が、自分で自分の世話ができないということが、どれほどストレスに感じるだろうか。それだけは生来の気質を承知していたため、「気に病ませてはいけない」と、何があっても笑い飛ばそうねと姉と約束しました。
大丈夫だよ。
病気のせいだから、お母さんのせいじゃないからね。
安心してね。
わたしたちの気持ちが、少しでも母に届いていたことを願います。

急激に進んだ病状

7月に入り、病気が急に進行しはじめました。
5月・6月に一人で歩いているときに転倒し、頭を打ったり前歯が折れたりしたことが、精神的にも物理的にもショックだったことが要因なのかなと思います。一人にしておく時間をなるべく短くしなくてはならないということが段々とわかってきたため、わたしも6月からは土日は母のところで過ごすようになりました。
排泄の管理はこの頃にはもう人の手を借りずに自分で行うことはできなくなっていたようですが、本人は知られたくなかったようで、必死に隠そうとしているのが、子としては衝撃でしかなかったし、痛々しくてできれば目を背けたかったほどです。しかし、そこで信じられないものを見るような表情をしてしまっては、母を傷つけるだけだと、極力明るく対応するように努めました。
歩行もほぼ困難になっていました。家の中ですら転んでしまい、打ち所が悪くあばらを骨折。転倒時に受け身をとることができないため、顔面もあざだらけでかわいそうでした。
あまりにも変化が急激だったため、定期的な通院ではない時期に臨時の検査を行い、8月初頭にその結果を聞くことになりましたが、「あまりにも進行が早いため、このままでは年を越せないかもしれない」と告げられました。MRI画像を見せてもらうと、半分近くが腫瘍に侵されていることがわかりました。手術のときに見たものの倍近くになっていました。3月に1年から1年半と告げられていた余命が半分にまでなったことはショックでしたが、直近の母の様子を見ていると納得できたため、涙は出ましたが比較的落ち着いていました。そして、今度こそは、姉に「年を越せるかどうか」という余命を伝えました。二人でずっと泣きました。でも、できることをできるだけしよう、できるだけ母と一緒にいよう、と約束しました。

このあたりまで、「一人暮らし」のていを保つことが、今後に対する希望や自立をにおわせるという意味で母の気持ちの面でプラスだろうと考えていましたが、これ以上はもう無理だということで、9月から姉が母と同居することになりました。わたしは週末に通うスタイルを維持することになりましたが、姉曰く、「全員同居になると、全員がストレスを抱えることになって吐き出す先がなくなるから」通ってくれる方がいい、ということでした。実際、在宅勤務をしながら24時間母の世話をすることは、いくらマザコンを自負する姉でもイライラしてしまう場面が多々あったようで、母に厳しい物言いをしてしまうことがあったようです。週末だけ訪れるわたしはイライラすることもなく母を甘やかしまくることができるし、姉もわたしが来ているときは寝坊できるので、バランスのとれた介護生活を送ることができたと思っています。
またこのころには介護認定が更新され、要介護3となりました。車椅子や本格的な介護用品を安価にレンタルできるようになり、家族の負担も少し軽くなりました。

治療法の変更とステロイドの投与

話が少し遡りますが、「年を越せないかもしれない」という宣告を受けた後、治療法を変更することになりました。
それまで通院して受けていたのは「症状を改善させるため」の治療でした。
しかしその治療法が母には効かず病状が進行してしまったので、次の段階である「症状を遅らせるため」の治療に移ることになったのです。
放射線治療から点滴治療に変わり、処方される薬も大幅に増えましたが、その中にあったのが「ステロイド」。これがまた効果てきめんで、服薬する前日まで話しかけても無反応だったり「うん」しか言わなくなっていた母が、喋ったのです!もう、うれしくて泣いてしまいました。聞くところによると、「明日の元気を今日に持ってくるようなもの」らしく、服薬をやめるとまたもとに戻ってしまうとか、骨がもろくなる可能性があるとか、からだがむくむ副作用があるとか、色々言われましたが、とにかく母とまた会話できたことがこの上なくうれしいことでした。
8月の末には遠方に暮らす伯母やいとこがお見舞いに来てくれました。結果的に、これが母が生きているうちに最後にお姉さんと会わせてあげられた機会となりましたが、このタイミングでよかったです。少し前でも後でも、変わり果てた姿を見せずに済んだことは不幸中の幸いでした。

お出掛けが段々と難しくなっていった

秋~初冬にかけては、車椅子とレンタカーで色々とお出掛けをして母を連れ出してあげることができました。温泉好きの母をどうしても温泉旅館に連れて行ってあげたくて、近場かつ車椅子OKかつ露天風呂付客室、という条件で姉と必死に探して見つけたお宿はとっても大正解な選択でした。祖父母の墓参りにも連れていくことができました。
だけれどこの頃にはステロイドの効きも悪くなってきて、ぼんやりしていることがほとんどでした。恐らく記憶の保持もできない状態だっただろうと思うので、最期に一緒に入った温泉のことも帰ってきたら忘れちゃっていたかもしれませんが、なかなかゆっくり入浴させてあげられなくなっていたので、お風呂に肩まで浸かってリラックスしている母の表情を見て、連れてきてよかったなと思いました。
また足元もさらに覚束なくなってきたため、車椅子から車の座席に移るのが困難になっていきました。電車移動の後、駅から車椅子を押して行ける範囲しか出かけられなくなり、また座っているだけでも体力がすぐに削られてしまうようで、次第に出かける先は家の近所ばかりになっていきました。

ショートステイサービスの利用開始

12月に入り、姉も体力の限界が近づき、週末にショートステイサービスを利用することになりました。金曜の午前中に出発し、土曜の午後に帰宅する1泊利用ですが、姉はこれにより土曜・日曜と睡眠時間を確保できるようになりだいぶ楽になった、と言っていました。ただ、わたしは変わらず土日に週末介護、平日はフル出勤なので、すでに体力の限界でしたが…(笑)。姉が心配するので、平日にこっそり体調不良で仕事を休んだりして、土日は絶対に介護に行けるように調整していました。
ショートステイで何よりありがたかったのは、入浴でした。冬に入る頃にはすでに、歩行器で家の中を歩けはするものの、座る・立つの動作が難しくなっていたため、自宅で入浴するのにもひと苦労でした。しかも、入浴と言っても浴槽に浸かってしまうと立てなくなってしまうので、シャワーのみ。体力的に、顔、からだ、髪のうち一部分しか一回の入浴で洗ってあげることができず、きれい好きな母にとってかわいそうな状態でした。10歳も20歳も年上の方たちの中に急に放り込まれて寂しい思いをしたかもしれませんが、週に1回でもお風呂でさっぱりできて、よかったんだと信じたいです。

なんとか越せた年末、年明けからは転がるように

8月に「年を越せないかもしれない」を言われてから4ヵ月。母はクリスマスも年末もお正月も迎えることができました。クリスマスには姉が腕を振るって豪華なディナーをふるまい、年末は我が家恒例のカニしゃぶ、お正月は奮発してデパ地下で発注した高級おせちを楽しみました。たくさん写真を撮って思い出を残すことができました。
そんなわたしたちの思いを悟って頑張ってくれていたのか、年明け2週間ほどを過ぎると、母はついに立てなくなりました。家の中でも車椅子移動になり、ベッドとソファの往復の日々。食卓までたどり着けないため、食事はソファで食べさせることに。年明けまでは自分でお茶碗とお箸を持てていましたが、急にそれもできなくなり、完全に食事は介助なしでは摂れなくなりました。

いよいよか。という段になって、母の友人たちにまったく知らせていなかったことを思い出し、慌ててわかる範囲で連絡を入れ、お見舞いに来てもらいました。すでに会話ができる状態ではなかったものの、仲の良かった人たちの顔を見れば少しでも元気が出るかな…と。藁にもすがる思いとは、まさにこのことですね。20年来、30年来の友人がお見舞いに来てくれて、励ましてくれました。遠路はるばる、ありがたいことです。母の表情も少しほころんでいたいような気がします。

この1月後半から2月前半が、最も辛い時期でした。
生活はフル介護が必要なうえ、薬の影響で糖尿気味になり腎臓内科への通院も必要、ついに床ずれができてしまい皮膚科へも週に1度の通院、大学病院での点滴治療は2週間に1回のペース。
姉と交代で通院、通院の日々でしたが、いやはや、姉もわたしも体力の限界に達しました。
2月上旬、姉が高熱で倒れ、わたしも外せない取材があり、ついに絶対に頼りたくなかった父を召喚することになりました(父を頼りたくない理由は、いつか機会があれば…)。なりふり構っていられない、必死の日々でした。

ついに治療の最終段階へ

2月14日、バレンタインデー。
高熱から復活した姉が、治療のため大学病院へ母と通院しました。
そこで、年明けからの様子とMRI画像の結果から、「症状を遅らせるため」の治療がもはや無意味であると判断され、最終段階である「症状を和らげるため」の治療に移ることになりました。さっそくその日に入院し、投薬後安定し次第の退院、という運びとなりました。いよいよ最終段階だ。われわれ姉妹も腹をくくり、この入院期間はラストスパートに向けて母が用意してくれた休息期間だと思うことにして、姉と美味しいものを食べまくり、土日は思う存分惰眠を貪りました。その間、最後の介護生活に向けて、介護ベッドやもっとしっかりした車椅子、酸素吸入器や痰の吸引機など、自宅で看取ることができる体制を整えました。

3月初頭、退院した母は、段々と起きている時間が短くなっていきました。
言葉ももう、ほとんど発することができません。
わたしが最後に会話らしい会話をしたのは3月末のこと。
「4月から係長に昇格することになったよ。ランクアップだよ、ほめて」と言ったのに対し、「らんくあっぷ」とオウム返ししてくれたのが最後。
あとは、頷くか手を握り返すか。
きっと、聞いたことを一生懸命頭の中に入れて、理解して、返すべき言葉を必死で探してくれたんだと思います。もう自力ではなかなか動かない腕を勝手に持ち上げて、わたしの頭にぽんぽんと置かせました。きっといつもの母なら、頭を撫でてくれるはずなので、そうしました。表情ももう動かなかったけど、わたしには微笑んでいるように見えました。

最期のおだやかな日々

3月から4月中旬は、眠っている時間の方が圧倒的に長いものの、母とおだやかに過ごすことができました。
介護認定は要介護5(一番上の段階)になりました。必死に通った皮膚科や腎臓内科は訪問医療に切り替わり、平日は朝・昼に介護ヘルパーさんが来てくれ、週に2回は訪問看護で看護師の方にもみていただけるようになり、わたしたちの体力的な負担も一気に減りました。おかげで、きっと最期であろう母と過ごせるこの期間に、母にたくさん寄り添い、笑顔で過ごすことができました。地域の医療・看護体制には感謝しかありません。

4月の中旬は姉の誕生日でした。
外食にも連れて行ってあげられないし、ということで大奮発して出張シェフを手配し、自宅で天婦羅懐石をいただきました。
母は、食事のときなど長くても30~40分ほどしか起きていられない状態になっていましたが、その日はよっぽど楽しかったようで、1時間半ほど目覚めた状態で食事を楽しむことができました。途中で眠ってしまいましたが、大好きな天ぷらを思う存分食べれて満足そうな寝顔でした。

母の病気が発覚して1年2ヵ月が経っていました。
その間、母自身の誕生日があり、クリスマスがあり、わたしの誕生日、お正月、そして姉の誕生日を母と一緒に過ごすことができました。
やりたかったことをすべてやりきった、と母は感じたのでしょうか。

天ぷら懐石をいただいた次の週、母は食べることをやめました。

さいごのひ

食事を摂らなくなり、体温・血圧ともに急降下。救急搬送となり、いつもの大学病院で、治療を終了しましょう、と言われました。あと1ヵ月程度と言われました。容体が安定したら自宅へ戻り、自然と心臓が止まるまで、そばにいるように、と。GW明けに退院した母は、そこからもう目を覚ますことはありませんでした。
栄養と水分補給は鼻から経管で行いました。
ただ呼吸をして寝ているだけの状態が続きましたが、母がそこに存在してくれているだけで、それ以上の贅沢は、もうありませんでした。

5月の末に誤嚥性肺炎で再度入院し、6月12日に退院予定でした。
わたしは最期を母のそばで過ごすために、介護休業の申請を終えたところでした。
母は、退院前日に旅立ちました。

6月11日の午後、容体が急に悪化しているため、家族はすぐに来てほしい。会いたい親族がいたら一緒に来て構わない。と病院から連絡がありました。
それまでコロナ対策で完全に面会謝絶が続いていたため、何人でも病棟に入れてくれるということは、つまりそういうことなんだ。と理解し、すぐに病院へ向かいました。
2週間ぶりに会った母は、ベッドのうえで、全速力疾走しているような息の荒さでした。身体もむくんでしまい、一目見ただけで死期が近いとわかるほどでした。家族のほかに叔父が2人駆けつけてくれて、たくさん母に声をかけました。
医師から、呼び出した時点よりは容体が安定したが、予断を許さない状況であると告げられました。このまま入院していても、予定通り翌日自宅に連れて帰ってもいい、と。好きな方を選んでくださいと言われました。
つまりは、もう病院にいても、いなくても、同じということなんだな、と理解し、「最期は自宅で」と決めていたので、翌日退院する方向で準備することとなりました。
翌日退院と決めたものの、夜のうちに何かあるかもしれないし、心配だろうからということで、わたしがその日は病院に泊まることになりました。いったん自宅に戻って着替えてきてもよい、とのことだったので、母を残してその場は一度解散となりました。病院からわたしの自宅は1時間以内の距離です。急いで支度して戻ってくるからね、と病院をあとにしました。

着替えて、退院に必要なものを持って、病院へ戻ったのが20時半。

わたしが病室につくと、心拍ゼロの表示でピーという電子音が鳴り続け、母は冷たくなっていました。

わたしが到着するつい5分前に、心臓と呼吸が止まったということでした。
夕方会いに来たときの母の脈拍は160。
2日間休まず全力疾走しているような状態だったそうで、うん、そりゃあ疲れるよねえ。と冷たくなった母を抱きしめました。
母は、穏やかな顔をしていました。
やりきった表情をしていました。
できれば最期の瞬間は手を握っていたかったけれど、恥ずかしがり屋の母なので、逝くところを家族には見られたくなかったのかもしれません。今の状態で退院したら、最後に娘たちに大変な苦労をかけるかもしれない、と感じたのかもしれません。
そう思うと、お母さんらしいね。
その場で電話で報告した伯母も、30分後に到着した姉も、しみじみと呟きました。たった5分が間に合わなかったわたしは、このことを今でも悔いていますが、その言葉にとても救われました。

最初に余命宣告を受けてから1年3ヵ月目のことでした。
主治医の先生が言ったとおり、苦痛はなかったようです。
必死で抗って、ここまで耐えて、できる限りこの世に存在してくれた母に、心から感謝しています。

あれから2ヵ月

先日納骨を終え、相続もなんとなくうまい具合に落ち着きそうで、あとは遺品整理、という段階です。
ものが捨てられない母の遺品は、いつの時代のものかもわからないような(たぶん)思い出の品が多く、姉と苦笑しながら片付けを進めています。
できるだけ使えるものは引き継いで使いたいと思うものの、さすがに着物はいらないなあ…とか、わたしたちが幼稚園のころのお絵描きは「いらんわ!!(笑)」とか、容赦なく処分しているものもあります。
洋服類はすべて古着の寄付に回しています。
ただ、最近まで着ていたお洋服は、なかなか手放せませんね。
おそらく遺品整理が済んで姉が今の家を引き払う、最後まで捨てられないような気がします。

わたしはと言うと、母の死だけならいざ知らず、直後にお世話になった会社役員が急逝したり、安倍さんの事件があったりと、「死」にナーバスになっているところに立て続けに訃報が続いたせいか、体調を崩し仕事をしばらくお休みすることになりました。
体調が整うまでは、存分に母を想って泣いたり、1年3ヵ月酷使した身体を休めることにします。

おわりに

生まれたからには、人はいつか死ぬ。
そんな当たり前のことを縁のないものと感じ生きてきたわたしは、母の件を受けて、本当に人って死んじゃうんだな、と実感しました。
昨日まで、明日のことを語っていた人も、今日急に死んでしまうかもしれない。
急に体や頭が思うように動かせなくなるかもしれない。
普段考えもしなかったことを目の当たりにして、人生が有限であることを思い出しました。

わたしは母が病気になってから亡くなるまで1年3ヵ月の猶予があり、そのとき思いつく限りのことはすべてやったつもりですが、振り返るにつけ、あれもこれもと後悔は尽きません。
大切な人が病に侵されたら、という状況を含め、「いつかじゃなくて今やる!」「やらない後悔よりやった後悔!」、ありきたりなフレーズですが、この2つを本当に、本当に心に刻んでこれから先を生きていきたいと思います。

どうか、同じような状況で辛い思いをされている方も、やり残しのありませんように。どれだけやっても誰しもどうせ後悔するんですが、ひとつでも少なくなりますように。大切な人との残された時間を心穏やかに過ごせますように。
心の底から、祈っています。

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