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【対談】記憶の残し方、過去の語り方――大澤聡×水出幸輝「個人的な記憶、社会的な記憶」〈第1回〉

 2019年に人文書院から発売された『〈災後〉の記憶史――メディアにみる関東大震災・伊勢湾台風』をめぐって、批評家で、メディア史研究者でもある大澤聡さんとの対談が実現。歴史と記憶について、たっぷり語っていただきました。

収録日:2019年12月13日

1 個人的な記憶、社会的な記憶

大澤聡 水出さんの『〈災後〉の記憶史』は日本社会と災害の相関をたどった仕事です。関東大震災に関するこの100年ほどのあいだの認識の変遷が検討の軸になってはいますが、そこに伊勢湾台風(1959年)や「防災の日」(1960年)、あるいは戦争なども重要なアクターとして視野に入ってきますし、方法論にも自覚的なのでいろいろな応用が考えられると思います。博士論文が原型なので学術的なスタイルをとってはいるけれど、叙述は平易だし、なによりテーマが社会に開かれていますね。研究者ではない一般読者に本書の売りを一言で説明するとしたら、どうなりますか。

水出幸輝 一言だと……「私たちが常識として知っている関東大震災は昔から現在のように共有されていたわけではない」でしょうか。

大澤 ある種のショック療法から入るわけですね。どこか帯文っぽい。

水出 大学の講義の導入でも使うんです。関東大震災を知っているかと問うと、たいていの学生は「知っている」と答えます。では、伊勢湾台風はどうかと訊けば、名古屋や東海三県あたりが出身の学生は反応してくれるけど、それ以外の学生はまず無理ですね。そこで、伊勢湾台風の詳細を解説すると、「なぜそんな巨大災害が忘れられたのか」と疑問をもってくれる。「死者・行方不明者5,000人以上」という数字はやはりインパクトがあります。

大澤 学生にかぎらず、世間全般がそんな反応でしょうね。そこでその謎解きをやってみた、と。メディア言説をじっくりたどっていくと、常識だと思い込んでいたことがじつはそうでなかったと判明する。そのひっくり返しはメディア史研究の醍醐味ですね。

水出 だからこそかもしれませんが、誤解されることも少なくないんです。年長の方が本を読む前から「いや俺は覚えている」とおっしゃったり……。

大澤 個別の体験を手形に当事者がマウントをとってしまうケースは歴史研究にありがちです。

水出 「覚えている」ことを否定したいのではもちろんありません。ただ、この本でやりたいこととはズレてくる。

大澤 そうやって覚えている人がいるにもかかわらず、社会全体として共有されなかったのはなぜかを問題にするわけですからね。

水出 テーマは「記憶」です。「社会がどのように忘れていったか」という忘却のプロセスも描いたところがポイントです。たしかに、個人では「覚えている」人がいるのに、社会的には「忘れた」という事実が存在する。そちらの忘却を検討したわけです。ですから、「俺」の話はひとまず横に置いて読んでもらえたらと。

大澤 関東大震災の記憶がナショナルな記憶として成立するプロセスを丹念に追いかけるわけですが、「関東大震災」の部分にはほかの出来事を代入することも可能でしょうね。

水出 そうやって応用してもらえるとうれしいです。

大澤 たとえば、第二次世界大戦の当事者語りが検証の場にある種の権力構造をもちこんでしまう場面はよく目にしてきました。それゆえに、学問的な議論が交わされるはずの学界においてさえ、世代間対立に陥るケースもしばしばある。証言としては貴重なんだけれど、それを重視すると議論の位相がどうしてもズレてくるんですよね。だいたい、原理的に年長者は先にいなくなるわけですから、そのままの構図で検討を進めていくと、当事者といっしょに問題そのものが消え去ってしまう。ですから、当事者性を特権化してそれ以外の議論を封鎖する構造は回避したい。時限性のある語りだと頭ではわかっていながら、ついこの罠にはまり込んでしまいます。この20年ほどのあいだ、あらゆる現場で要請され続けてきた「記憶の継承」問題にも関係してきます。

水出 「忘れてはいけない」という語り口が多いのですが、そこで個人的な記憶に焦点を当てすぎてしまうと、社会にまで議論が拡げられなくなる。

大澤 そのジレンマですよね。個別のライフヒストリーにどこまで目配りするのか。社会学の方面では岸政彦さんたちを中心に生活史が流行しているわけですが、あの流れと歴史畑の人たちの理論的な対話が必要なんじゃないでしょうか。

水出 ちなみに、この本は世代論で展開していません。扱う期間は90年以上もあるにもかかわらずです。戦争の記憶については、戦前派、戦中派、戦後派、無戦派といった世代区分がなされますが、あれは戦争が日本全土の体験だからですよね。前線と銃後では体験が同じではありえないし、地域ごとに濃淡もあるけど、それでもある程度みな語ることができる。ところが、災害は全国の共通体験として語ることが難しいトピックです。どこまでもローカルな事象なんですね。だからこそ、地域間の比較が意味をもつ。

大澤 「時間的な拡張」と「空間的な拡張」を同時に試みるという本書の狙いはよかったと思います。「災害」が指し示す時間の範囲を引きのばす。そのうえで地域間の比較もおこなう。しかも、拡張という点では、時間や空間だけではなくて「ジャンルの拡張」もそう。いろんな変数を拡張しようとされていますね。

水出 研究領域の拡張は課題のひとつでした。「防災」の話に限定させないというか、災害を別の側面から議論する、新しい災害研究の可能性を見せたかったんです。

大澤 他方で、そんな挑戦的な試みであるがゆえに、既存の研究分野に収まりにくいという、別の分かりにくさをともないます。メディア史なり歴史社会学なりに該当するのでしょうけど、あくまでそれらはサブディシプリンです。学問領域をブリッジしていく試みは私が日々苦労するところですが、ときにはそれが弱みにもなりかねない。ようするに、誰にも読まれない危うさ。領域のあいだをつないだり埋めたりする試みが、結果的に、お見合い落球を招くこともある。

水出 それは困りますね……。

大澤 題材としては科学史や情報学など理系方面とも重なっていますから、その人たちにきっちりリーチしうるのかどうか、「まともに相手にされるかどうか」がひとつの指標となるでしょうね。「メディアがどう伝えてきたか」に特化しているから、狭いところでは、伝統的にジャーナリズム研究に相当するんだけど。

水出 従来のメディア研究における災害の扱い方とは距離がある本だと思います。災害とメディアというテーマはもともと東京大学新聞研究所(現・情報学環)が中心となって蓄積してきた領域です。初期は岡部慶三、そのあとは廣井脩が中心にいました。彼らは主に発災時に議論を集中させていましたが、そことの差異化はかなり意識しています。

大澤 まさに、「災害情報論」から「災害のメディア研究」へ、ですね。

水出 もうひとつは、体験者や災害そのものとも距離をとっています。災害に関する本なのに、関東大震災や伊勢湾台風の描写がほとんど含まれません。そこは膨大な蓄積がすでにありますから、詳細に書き込まなくてもよいと考えました。そのかわり、事後的に体験が載ったメディアに着目したわけです。そこがこの研究の新しさですし、メディア研究に軸足を置いていることを示してもいます。

大澤 詳細な災害の再現は、体験記を核とする磁場に呑み込まれることを意味するわけですからね。ローラー作戦でしらみつぶしに関連素材をかき集めてきて、災害のリアルを描きなおす作業にはもちろん意義があるだろうけど、それでも一回性のある生の声の強度には最終的に勝てない。となると、あとから来た者の強みは、長期的なスパンのなかで現象を捉えなおすことができるというところにあります。

〈つづく〉

※本連載は全5回、6月15日(月)より毎日掲載いたします。


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略歴

水出幸輝(みずいで・こうき)1990年、名古屋市生まれ。関西大学大学院社会学研究科博士課程後期課程修了。現在、日本学術振興会特別研究員。専門は社会学、メディア史。共著に『1990年代論』(大澤聡編、河出書房新社)、『一九六四年東京オリンピックは何を生んだのか』(石坂友司、松林秀樹編、青弓社)。

大澤聡(おおさわ・さとし)1978年生まれ。 東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了。 現在、近畿大学文芸学部准教授。専門はメディア史。著書に『批評メディア論――戦前期日本の論壇と文壇』(岩波書店)、『教養主義のリハビリテーション』(筑摩書房)、編著に『1990年代論』(河出書房新社)など。

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