【批評の座標 第4回】あいまいな批評家の私――柄谷行人(松田樹)
あいまいな批評家の私――柄谷行人
松田樹
一、文学者か思想家か
二〇二二年一二月、柄谷行人(1941-)は、米国のバーグルエン哲学・文化賞をアジア人として初めて受賞した。受賞の理由は、「現代哲学、哲学史、政治思想に対する極めて独創的な貢献」とされている[1]。
この報は、過去の批評家の歴史的な達成を紐解いていく、本企画にはうってつけのものであるように思われる。われわれが本企画で目論んだのは、まさに、グローバルな思想的文脈とは異なる形で、しかし時にそれに匹敵する強度で展開されてきた、小林秀雄以降の日本の人文知の伝統を辿ってゆくことだったからである[2]。いま改めて、柄谷行人が批評と呼ばれるジャンルに何をもたらしたのかを精査するのは、喫緊の課題である。
ところが、近年の柄谷評価をめぐっては、もう少し事情が複雑である。審査委員長のアントニオ・ダマシオが「資本主義の本質を深く掘り下げる、哲学の新しい概念を生み出しました」と紹介する通り、そこで歓迎されていたのは、あくまでもグローバル資本主義の席巻に抗する「Japanese philosopher」としての姿であった。
受賞を後押しした要因としても、選考委員の一人である汪暉との交流を含めて、東アジアにおける受容の広がりがあったと噂されている。受賞に先立って刊行された最新刊『力と交換様式』(2022)の巻末の著者プロフでも、柄谷行人は「思想家」を名乗っている。今後、彼が読み継がれてゆくとすれば、そこではもはや批評というローカルな文脈は綺麗さっぱり払拭されてしまっているのではないか。そして、彼自身はそれを歓迎しさえするのではないか。
そう。この光景は、どこかで見覚えがある。柄谷のバーグルエン賞受賞とは、彼がみずからの足場に据えていた言説空間から一人切り離されて卓越化してゆくという意味で、あたかも第二の「NAM問題」なのかもしれない[3]。
昨年冬、突然飛び込んできた受賞の報に賛意を送っていた人々は、彼の業績が「philosopher」とされていたことに何の痛痒も感じなかったのであろうか。そこでは批評という独特なジャンルに対する配慮や彼の議論の背景にある固有名の連なり(小林秀雄・吉本隆明・江藤淳…)が捨象されてしまっていたにもかかわらず。
たしかに、バーグルエン賞の場でも「literary critic」に関する彼の業績は紹介されている。だが、そもそも当の柄谷こそが「philosophy」や「critic」と、日本における「文芸批評」との交換不可能な差異を力説してきたはずであった。例えば、柄谷の代表的な著作である『批評とポスト・モダン』(1985)には、以下のような一節がある。
同書は、八〇年代中盤にアメリカと日本を――世界的な「ポスト・モダニズム」の潮流と小林以降の「文芸批評」の伝統を――行き来しながら書かれた著作である。そこではマルクス主義を始めとする外来思想との緊張感を保ち続けたがゆえに、日本の「貧しい」「文芸批評」に「豊かな」「哲学」よりも高次の価値が付与されていた。『批評とポスト・モダン』の時期、貧相な日本の言説環境の下では「批評」という営為は「生きられるほかない」条件として定義されていたのであった。
では、「Japanese philosopher」として国際的な評価を受けている現在、柄谷はその貧しさから脱却し得たのだろうか。とすれば、かつて力説されていたアメリカ=「思想」と日本=「文学」との間の溝は、いかにして埋められたのか。逆にまた、国内メディアでは現在でも「僕がやっていることはいまでも文芸批評」としばしば述べているが[4]、公的には「思想家」を名乗っているそのズレはいかに考えられるべきなのだろうか。
結論から言えば、思想家と文学者の間を揺れ動くそのあいまいな自己規定にこそ、柄谷行人の核心的な問題がある。そして、そのあいまいさを引き受けることにのみ、批評を読み書くことの倫理が存在する、と柄谷はみずからの活動を通じて言おうとしている。
しかし、そう性急に断じる前に、本欄では小林秀雄(赤井浩太)・吉本隆明(小峰ひずみ)・浅田彰(西村紗知)と続いてきた連載のバトンに相応しく、まずは、かつての柄谷にとって批評なるものが何を意味しており、現在に至るまでそれがどのような変遷を辿ってきたのかという確認から始めよう。
現在連載中のインタビューに彼は「私の謎」という題を付しているが、小林以降の批評の伝統に照らし合わせた際に、果たして、柄谷行人とは何者だったのだろうか。
二、「文学」と「思想」の間で
この企画を共に運営している赤井浩太は、第一回で、若き柄谷が批評家に与えた存在規定を批判するところから始めている。すなわち、「どこか拗ねたものを感じる」その位置付けを「挫折と諦観の小唄」と一蹴することによって。
しかし、私の考えでは、それは上に見られる全能感と表裏一体のものである。すなわち、「文芸評論」とは「哲学」でも「心理学や人類学」でもない代わりに、「それら一切合切をふくむもの」であり、「自分自身の生と切り離されたものでは」ないという意味で、その根幹に位置付けられるものである。
重要なことは、「当時、「文学」という言葉は、そのようなものを意味していた」と、その営みにかつてありえた「文学」の名が与えられている点である。柄谷において批評とは、「哲学」を始めとする学問体系の範疇に収まらない不安定なものであり、その余剰的な性格は過ぎ去ったものとしての「文学」と名指されて初めて措定される。前節に引いた『批評とポスト・モダン』における日本の文芸批評の歴史的な位置付けに関する言及が、まさに彼自身の立場表明に他ならないことを、まずは確認しておこう。
ところで、管見の限りでは、現在に至るまで柄谷の著者プロフは、
という大まかな変遷を見せている。
①から②の転換の契機となるのは、『トランスクリティーク』(2001)である。ここで彼は「文芸」という接頭辞をみずからのプロフ上から抹消し、「評論家」としてグローバルな資本と政治の動きに連動しようとする。盟友・中上健次の死はその転身において時宜に応じた出来事であり――中上の死は90年代初頭であるが、それが理論化されるのは90年代後半からゼロ年代初頭にかけてである――、そこで呼号されていた「近代文学の終り」という文言には彼の提唱するNAM(New Associationist Movement)という政治運動へのスローガン的な意味が込められていた。
②から③の間に挟まるのは、『遊動論――山人と柳田国男』(2014)や『憲法の無意識』(2015)といった原理的な著作である。『世界史の構造』の初版(2010)時に見られる「評論家」という肩書きが、岩波現代文庫(2015)に収められる際に「思想家」と変更されている点に目を向けておきたい。『遊動論』が震災を契機に執筆されていたように、柄谷における震災ショックは、民俗学や人類学などの原理的な「思想」への遡行として受け止められていたのである。
バーグルエン賞の受賞は、こうした二段階の転身が実を結んだものであったのだ。
注目すべきは、②の時期に切断されようとしていた「文学」が、③において回帰し始める点である。例えば、『世界史の実験』(2019)ではその転機となる出来事が、以下のように述懐されている。
このように、震災を契機とする柳田の再発見は「文学」――そこにまた「日本」という要素も加えられていることについては後に言及しよう――への回帰を伴っている。それに応じて、近年では、亡くなった中上の代わりに津島佑子などが補填されることになる。「あるとき、私は悟った。津島佑子は中上健次の代行者以上のものである、と。(中略)その年に刊行した『世界史の構造』と符合するものを感じたからだ」[5]。
ここでも「一九九二年に彼〔中上健次〕が死んだとき、いよいよ文学から離れられると思った」と九〇年代からゼロ年代にかけての政治運動への傾斜と「評論家」への転身(①→②)が回顧される反面で、さほどの矛盾が感じられることのないまま、無事に「文学」への回帰(②→③→①)が果たされるのだ。
なぜなのか。運動に向かうと宣言し、そこから人類史にまで考察を進めたのにもかかわらず、なぜ彼は出発点に立ち戻らざるを得ないのか。あなたは中上の死に際して「文学」に別れを告げたはずではなかったのか。しかし、読者から想定されるそうした当惑の声を無視して、今日では、かつて述べられていた「近代文学の終り」という文言さえも、以下のように修正されることになる。
間接話法的な言い回しを通じて、ここではほとんど彼自身の「文学」回帰こそが語られている。かつての言動との落差をあげつらうのではなく、「社会科学」や「哲学」の外部にあり、それらを基礎付けているものを、過ぎ去った「文学」としか名指すことができないという彼の態度の一貫性にこそ注意しよう。
柄谷行人においては、つねに「哲学」を打ち立てたその後に、絶えず余剰が「文学」という形で幽霊のように回帰する。交換様式という世界を秩序立てて説明する体系的な「哲学」は、むしろ逆に、そこから逃れ出てしまう「文学」を亡霊として呼び寄せる。柄谷があるときは「評論家」を、またあるときは「思想家」を僭称し、その都度、ヒステリックなまでに繰り返し「近代文学の終り」を宣告し続けねばならないのは、どうしても「文学」という余剰がそこに生み出されてしまうことへの否認の身振りに他ならないのだ。
しかし、デビュー時から現在に至るまで「哲学」と「文学」の間をあいまいに揺れ続けているからこそ、柄谷行人は「批評家」たりえている。ところが、こうした側面は「Japanese philosopher」として彼を評価する今日的な文脈においては綺麗に捨象されてしまっている。そればかりか、柄谷自身が積極的にその側面を切断しようとしている。前節にて、『批評とポスト・モダン』ではアメリカ=グローバルな「思想」と日本=ローカルな「文学」という対立図式が設定されていると述べ、その間の溝がいかにして克服されたのかと問うておいた。
おそらくそれは克服されたのではない。そうでなく、彼はみずからが指摘していたその溝を自覚的に用い始めたのである。
つまり、グローバルな舞台においては原理的な体系を打ち立てる「思想家」として振る舞いつつ、そこで抑圧されている余剰を日本のローカルな言説空間の中でのみ「文学」として回帰させること。柳田や津島の再評価が「「文学」と「日本」が回帰してきた」(傍点引用者)と述べられ、あくまでも国内向けの言説――文芸誌という制度的枠組み――の下で展開されている所以である。「僕がやっていることはいまでも文芸批評」などという発言は、決してバーグルエン賞のような場では発せられることなく、日本の読者に向けられたメッセージ、言い換えれば読者サービスとしてのみ示される。
まとめておこう。柄谷行人は、批評というジャンルに本来的に孕まれているあいまいな両義性を体現している。しかし、今日の彼は、そのあいまいさを、「文学」として彼の整序された「哲学」体系からきっぱりと弁別し、その二つを国外と国内の言説空間の間に上手く棲み分けさせる。
かつて彼が繰り返していたクリシェを逆用すれば、小林以降の文芸批評が体現していたように、そのあいまいさを危機=臨界点(critic)として保持し続けるのではなく。あまり注目されない事実であるが、『批評とポスト・モダン』は欧米を席巻するポストモダニズムの潮流を批判する傍で、ひっそりと小林秀雄に追悼の意を捧げている(小林は1983年没)。そこでは小林に見られる「思想」と「文学」の間の揺れが、まさに批評という営みに内在する緊張感として定位されていたはずであった。
ここで言われる通り、「思想」でも「文学」でもない文芸批評という奇妙な営みは、あたかも常に回っていなければならない独楽のようなものである。小林が作り出したその緊張感溢れるゲームの場があったからこそ、アメリカ=「思想」と日本=「文学」との間で揺れながら、「コマ」としての振る舞いを見せることができたと、柄谷は述べる。
だが、先に整理した②から③の時期、とりわけ③以降で柄谷は、もはやそのような緊張感の下に自身の行いを定位することを辞めてしまう。世界的に資本主義が猛威を振るっているのであるから、カントとマルクスを用いれば、日本の貧しい言説環境をすっ飛ばして普遍的な原理を打ち立てることができる、とでも言うように。
一方、そこで棚上げにされたものは、反動的に、日本の言説空間へと回帰してくる。最新作『力と交換様式』には小林も柳田も津島も登場せず、素手でヘーゲルやマルクスと対峙するような著作になっている。だが、あくまで批評家でしかない彼は、普遍的な原理への決まりの悪さ、そしてまた売るための読者サービスから、文芸誌において自身の哲学体系と付合するものを日本の文学者の著作に発見したと書き付けざるを得ない。今、我々の前で繰り広げられているのは、このようなうさん臭い分業体制に他ならない[6]。
ただし、一点付け加えておくとすれば、小林を見送った後、柄谷は「台座」作りに注力した時代があった。浅田彰との共同編集による雑誌『批評空間』の時期であり、とりわけ同誌に掲載された「近代日本の批評」(『批評空間』1989〜1991)というプロジェクトがそれである。この試みは、貧しい日本の言説空間の下で生きられた知性こそが、世界的な思想の潮流に重なり合うという『批評とポスト・モダン』の路線を敷衍したものに他ならなかった[7]。
その試みを継ぐ「現代日本の批評」(『ゲンロン』2015〜2016)にて東浩紀は「近代日本の批評」を通じて「「柄谷行人を中心とする批評の磁場」ができあがる」と述べている。だが、柄谷が「思想家」を名乗り始めた現在、こうした東の観測さえ、もはや過去のものとなりつつある。
したがって、往時の『批評空間』や『ゲンロン』読者には既視感を呼び起こそうが、改めてまた(何度でも)、批評の土台作りは始められる必要がある。批評というあいまいで無根拠な営みは、絶えず独楽回しの場と独楽の回転という両義的な振る舞いを要請するからである。東の言うとおり、「近代日本の批評」も「現代日本の批評」も、柄谷行人を主軸に置くことで、歴史的なパースペクティヴを成立させていたとすれば、その見立てはバーグルエン賞受賞によって――そして浅田彰も大澤真幸も國分功一郎も授賞式に参列しそれを称賛する現状で――吹き飛んでしまった。いま我々は、独楽として自由に回ることさえできない。アカデミズムに権威化された「思想」と、そこから分け隔たれた在野・ライター的な「文学」との間で、相互に炎上を繰り返し、不自由な後退戦だけを強いられている。これが本企画を立案した私の現状認識であり、そこにまずもって柄谷への言及を寄せた理由である。
では、この不毛な股裂き状態を乗り越えて、新たな土台の確立をどこから始めるべきか。その道を柄谷自身のテキストの読み直しから導くことで、本稿を締め括ろう。ある時期の柄谷が小林の空位を引き受けたように。
三、あいまいな文章とその倫理
若き柄谷によれば、批評とは「自己表現の形式」であると同時に、「本来それが自己表現を固く禁じている」奇妙な営みである。しかし、この「スリリング」さが「批評が文学となりうる」地点であると述べていたにもかかわらず、ある時期以降の柄谷は「思想」と「文学」を上手く棲み分けさせ、そのあいまい極まる独楽回しのゲームから降りてしまう。
彼が書くところによれば、「批評が文学となりうる」のはまた「倫理的な」姿勢の問題でもある。その「スリリングな」営みの二重性を読み得ないとすれば、これはまた読み手の「技術的な問題」ではなく、やはり同じく読者における「倫理的な」姿勢の問題、つまりは「文学」に対するリテラシーの問題であろう。
グローバルに応用可能で普遍的な学としての「思想」と、自己表現の垂れ流しとしての「文学」という安定的な弁別――いまはこればかりだ――は、読む我々を安心させる。対して批評が「思想」と「文学」の間で占めているあいまいな両義性は、書き手の「倫理的な」姿勢によって読み手のあなたにも「倫理」を迫り、我々を不安へと陥れる。
巷間言われる「批評の衰退」なる現象があるとすれば、それは書き手も読者も互いを安心させるためにしか書いていないからである。『批評とポスト・モダン』までの時期、柄谷においてその緊張感が生きられていたことはすでに述べた。では、読者はいかにして、そこに参入すれば良いのか。柄谷の文章と、これをまさに読者の「倫理」の問いとして読解しているある後続の書き手との関係性を例に取ろう。
この文章はいまだ小林が存命であり、小林の影響を否認することで柄谷が独り立ちしようとしていた時期に書かれたものである。この叙述について、福田和也は「悉く事実に反する」と嘲笑しながらも、すぐその後に「文意に意義と反発を覚えながら、私は文の力に圧倒されてしまう事を認めざるを得ない」と書き付ける[8]。
福田によれば、「僅か一段落の裡に、三〇年代フランスの洗練=鎖国=貧血→小林秀雄の洗練=鎖国=とぎすまされた言葉、という図式を作りあげて、マルクス主義との対抗=ダイアレクティック=交通、という図式と対置する手腕は、見事」であり、ここには「読者を問題の核心に引きずり込む」柄谷批評の本質が現れている。福田に重ねて言えば、「周知の事実である」「いいかえれば」「当然かもしれない」としばしば挟まれる断言と飛躍、「貧血」「暴力」とあえて「生理的」な言葉遣いを用いている点などもまた、さらにこの叙述のスピード感と迫力を高めていることは言うまでもない。
福田が驚嘆するように、こうした文章はどのような意味でも批評でしかない。ここで読者に伝達されているのは、説得的な論理展開でもなく、文献調査による成果でもないからである。しかし他方で、小林に託す形でマルクス主義との対決が知的な緊張を強いるはずだという、巧妙に隠された自分語りが秘められている。思えば、読者がここから何かを感じ取るとすれば、それは全くもって奇妙な営みに他ならないのだ。
先に柄谷は、このようなねじくれた文章を書く「技術」、そしてその「思想」でも「文学」でもないあいまいな立場を引き受けることこそが、批評家なるものの「倫理」であると説いていたのである。翻って、このような文章は読み手の姿勢をも問う。右の文章を「思想」として読み、三〇年代フランスの知的状況や小林像の片鱗を掴もうとしても失敗せざるを得ないからである。
同時に、これを安閑とした「文学」的な読み物としてすっ飛ばしてしまう者は、そこに込められた知的緊張や修辞的な技術さえ――つまりは本来的な意味での文学さえ――理解することができない。読者において必要なのは、まさに柄谷からバトンを継いだ福田が正しく読んだように、嘲笑した後に思わず熟考させられてしまうような技術=倫理に他ならない。柄谷が自身の後継を、福田にこそ見出した所以である[9]。
そして、我々はここに、批評の理想的な継承のしかたを見出す。かつて柄谷は、文章で根拠のない場を作り出した小林の試みを引き受けた。その柄谷から福田へ、そしてまたあなたへ、あたかも独楽の回転のように、読み手も気付かぬうちに書き手の思考に巻き込まれてしまうのが、批評という奇妙な運動なのだ。
柄谷の文章には、説得的な論理展開が存在しない反面で、ただ緊張感を持って書き手が何かに対峙していることを示す、ねじくれた自己表白と読者に対する思考の運動への誘いだけがある。彼はみずからが独楽として回ることで、読者にも回れと迫る。そのような誘いは近年の柄谷の著作からも、もしあなたが読もうとしさえするならば、感じ取ることができるだろう。例えば、最新作『力と交換様式』の任意の一節を引用してみよう。以下では、柄谷の地の文と柄谷によるヘーゲルやマルクスの引用を分けるため、前者を太字の強調で示すこととする。
柄谷がヘーゲルとマルクスを参照する二つのブロック引用を挟んで長々と挙示したが、このような文章はやはり批評家にしか書けない。同書ではヘーゲルの場合には全二ページ二八行にわたって、マルクスについても半ページを費やし五行の引用が行われているが、柄谷はその引用にどのような注釈も解説も行わない。論文であれば破綻している上記の箇所から読者がかろうじて触知しうるのは――引用箇所が膨大すぎるために引用と前後の説明はほとんど対応が見えない――、柄谷自身がヘーゲルやマルクスの著作を読んで考えていること、また読者にもそれを通じて考えろと迫っているということ、だけである。
ヘーゲル読解やマルクス読解として誤りであるという「哲学」的な反論は、ここでは空転せざるを得ない。と同時に、彼の主張は「ヘーゲルはそう考えた」「マルクスも同じようなことを考えていた」と過去の哲学者らの仮面を通じて提示される、「文学」らしいねじくれた自己表白の形を取る。この文章を読んだ時、我々は柄谷の思考の運動を追体験することで、「思想」でも「文学」でもないあいまいな批評という運動に巻き込まれ始めている。のるかそるか、読者の「倫理」が試されるのは、そのような次元においてである。柄谷にとって批評という営みは、「政治と文学」が直結した次元でなされている。あいまいな批評家としての柄谷行人がもたらしたのは、こうした歴史的転換であった[10]。
不幸にも、現代は普遍的な学としての「思想」と、それから弁別される余剰としての「文学」にスッパリと議論を分断させている。noteという媒体で始まったこの企画も、そこに掲載された私のこの文章も、あなたはやはり安閑と読み飛ばすことができる。その時、読者の倫理は問われることがない。昨今、「批評の衰退」や「ポストクリティーク」などと言われる言葉は、批評の運動に身を任せないでよいことの言い訳として機能している。
福田和也は、先の論考を「私は、特に、柄谷行人氏の批評文を読んで呆然とする事がある」と始めていた。いま読み手に求められるのは、文章の飛躍や誤認にしばしば「呆然」しながらも、同時にそこに込められた企みに「圧倒」される力に他ならない。柄谷が小林を読み、その柄谷を福田が読み、さらにその福田を我々が読んできたように、批評とは読むことによってこれに巻き込まれてしまうことから始まる。
大切なのは、いかに上手く扇動され、いかに上手く読みこなしてゆくかだ。その意味において、「思想」と「文学」の間で奇妙な揺れを見せ続け、彼自身の不安定な運動によって読者を扇動し続けている柄谷行人は、いまだ我々にとって上手に読み直されるべき批評家であり続けている。
[1] Rachel Bauch “ Annual Berggruen Prize for Philosophy & Culture Awarded to Japanese Philosopher Kojin Karatani ”(2022・12・8、https://www.berggruen.org/news/kojin-karatani/)。訳は、上記を訳出の上で転載しているPRTIMESの記事を参照した(https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000001.000113157.html)。
[2] 本企画発表に当たって、赤井浩太・袴田渥美と共同で執筆したリリース文「新企画 じんぶんの新人について 編集補助班より愛を込めて」(2023・4・28、https://note.com/jimbunshoin/n/n90301295091a)を参照。
[3] NAM (New Associationist Movement)に関しては、私も編集に協力した吉永剛志『NAM総括』(航思社、2021・2)を参照。また、その同時代的な背景については、note記事「批評=運動の未来/過去のために――『NAM総括』編集にあたって」を参照。(https://note.com/itsukimatsuda/n/n7e9a16b79f3e)。
[4] じんぶん堂サイトにて、2023年2月から連載中。柄谷行人「私の謎 柄谷行人回想録」(https://book.asahi.com/jinbun/article/14828259)。
[5] 柄谷行人「私ではなく、風が――津島佑子の転回」(『群像』2018・6)
[6] 余談であるが、柄谷における批評の扱いがそのあいまいさの間でしばしば揺れ動いているのに対して、当初からその弁別に居直っているのが蓮實重彥である。その点に関しても、福田和也がやはり鋭い指摘を行っている。福田和也「蓮實重彥 どうしてそんなにエライのか?」(『諸君!』1997・2)を始めとする福田の評を参照。
[7] 例えば、この時期の柄谷に随伴していた浅田彰は、マルクス主義を同時代的に摂取していた福本和夫などではなく、彼らと対峙し続けた批評家をやはり欧米の知的潮流に重ねている――例えば、小林秀雄はベンヤミンに擬えられる――。(Akira Asada “A Left Within The Place Of Nothing”, New Left Review, 2000)。
[8] 福田和也「柄谷行人氏と日本の批評」(『新潮』1993・11)
[9] 柄谷行人・福田和也「禅譲!?」(『リトルモア』1997・7)
[10] 戦後日本文学を規定してきた「政治と文学」という命題が、柄谷行人の登場によって決定的な変容を蒙ったことに関しては、かつて企画立案した特集「「政治と文学」再考――七〇年代の分水嶺」、およびそこに寄せた拙論「「政治と文学」再考――ケーススタディ・井上光晴と大西巨人」(『国文論叢』2022・3)を参照。
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著者プロフィール
松田樹(まつだ・いつき)1993年、大阪府生まれ。愛知淑徳大学・創造表現学部助教。中上健次を中心に、戦後日本の批評と文学の研究を行う。「批評のための運動体」と銘打った同人誌『近代体操』の主宰・運営。柄谷行人に関しては、以前、吉永剛志『NAM総括』編集に関わった経験を持つ。主な論考に、「熊野への帰郷――中上健次『化粧』論」(『国語と国文学』2020・8)、「村上春樹の「移動」と「風景」」(『近代体操』2022・11)など。現在、中上健次に関する博論をもとにした書籍を刊行準備中。
*バナーデザイン 太田陽博(GACCOH)
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