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【批評の座標 第1回】ゼロ距離の批評――小林秀雄論(赤井浩太)

f批評とはどういう営みなのか、あるいはどう読めばいいのか? 第1回目は、2019年にすばるクリティーク賞を受賞し、批評誌『ラッキーストライク』を企画・運営、さらには日本語ラップについての単著を執筆中の赤井浩太による小林秀雄論。批評界で鮮烈な存在感を放つ赤井が、近代文学批評の確立者と呼ばれる小林を真正面から論じます。

批評の座標
――批評の地勢図を引き直す

ゼロ距離の批評――小林秀雄論

赤井浩太

一 批評家の存在について

 人はいかにして批評家になるのだろうか。そしてそのとき人は、どのような存在として批評の言葉を発するのだろうか。
 昨年、バーグルエン哲学・文化賞をアジアで初めて受賞し、あらためて話題となった柄谷行人は、かつて批評家を次のように定義した。批評家とは、「何かを断念することによって獲得した一つの精神の存在形態」[1]である、と。
 つまり、創作者になれず、大学教授になれず、政治家になれず、それらを「断念」しなければならなかった者の悲哀ゆえに人は批評家になる、というわけだろうか。まったく賛同できそうにない。柄谷のこの説には、どこか拗ねたものを感じる。そう、言うなれば、あたかも自分が第二志望の人生を生きなければならなかったかのような、それ。
 挫折と諦観の小唄を歌えば批評家だろうか。そうではないと信じよう。僕がいま仮に、批評家だとするならば、この自分の現在が何かの「断念」の結果ではないことだけは誓って言える。
 批評家とは、むしろ何かに対する断念とは真逆の心性で動き始めるのではないか。舞台上に広がる他人の世界に魅入ってしまい、みずからもそこへ上がろうとする不穏な観客がそこにいるとしよう。人が舞台の闖入者となるとき、脚本にはありもしない台詞を語り、場面を作りだし、そのために役者の仮面をかぶることになる。
 だとすれば、批評の契機とはまず、自己への反省ではなく、他人への没入であったはずだ。他人に巻き込まれるようにして他人を巻き込み始めるのが、批評のセオリーである。それはなにも狭義の、芸術に対する批評に限らない。人生の様々な場面で、誰しもが他人に巻き込まれるようにして他人を巻き込んでいる。
 小林秀雄(1902-1983)は、この巻き込まれかつ巻き込む他人との関係を、みずからの批評の原理にした。他人の、つまり役者の顔をして舞台に上がってしまった闖入者。それは役者と観客との距離をゼロにするということに他ならない。
 文芸批評家の中村光夫は、小林秀雄について次のように書いている。

批評家の仕事は、彼が一人称でものを云うことを強ひられる以上、案外俳優と共通性を持つので、当時の檜舞台をさらつた、この[小林秀雄という]若い名優の演技は、今後もながく、青年批評家登場の模範として役立つでせう。[2]

 小林の一人称は、「名優の演技」として読まれた。その幕開けは1929年。若き日の小林秀雄は、『改造』誌上の懸賞論文で、「敗北の文学」を書いた宮本顕治(後の日本共産党書記長)と一等をかけて争うことになる。小林は二等だった。しかし、このとき書かれた「様々なる意匠」は、日本の批評に「私」と「他人」という問題を導入することになる。

[1] 柄谷行人「批評家の「存在」」『畏怖する人間』、講談社文芸文庫、一九九〇年、三四〇頁。
[2] 中村光夫「様々なる意匠」『中村光夫全集 第六巻』、筑摩書房、一九七二年、一四二頁。

本連載は現在書籍化を企画しており、今年11月に刊行予定です。
ぜひ続きは書籍でお楽しみください。


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執筆者プロフィール

赤井浩太(あかい・こうた)1993年生まれ、東京出身。神戸大学大学院在学、専門は日本近現代文学。「日本語ラップfeat.平岡正明」により、2019すばるクリティーク賞を受賞。批評誌『ラッキーストライク』を運営(創刊号と二号を刊行)。『ラッパーたちの階級闘争 右翼の根拠地を奪取する(仮)』(河出書房新社)を執筆中。


*バナーデザイン 太田陽博(GACCOH)

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