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コピーペーストのように人造人間

人の性格の8割はきっと絶対人からの言葉で作られているのだと思う。

きっとと絶対なんて一緒に使うものじゃないのはわかっているのだけど、科学的根拠だとか論文もあるわけでもなく個人の経験談のお話。

人の言葉で作られた自分
自分であるけど
(真の)自分ではいれない

昔から「しっかりしてる」「頭のいい子」なんて言われてきた。自分でも疑いもなくそれを誇らしく思っていた。だから、その期待に応えたいが故、都合悪くできないところは隠したり自分で解決する癖が付いてしまった。

周りからのそういった印象操作が進むと学校でのポジションも何となくそうなってくる。
教師たちもこの子に任せておけばいいだろうと何となくクラス委員やら指名する。

実際、頼られることは嫌いじゃなかった。
期待に応えたいというある意味“いい子”でもあったし、家庭柄なのか周りより大人びてるところもあったのは事実としてあるのだと思う。
というか頼られることで自分の価値や存在意義を見出してたのかもしれない。

そんな学校生活だから通信簿も「クラスの中心としてみんなを支え優しい面倒見のいい子です」なんて評価されてしまっている。

通信簿のただのクラス担任の評価を真に受ける我が家族とわたし。

「いい子」「優しい子」「面倒見のいい子」

が誕生。作られてしまった。

みなさん、こんにちは。こんばんは。
初めまして。ずっと知ってて作った人たちお久しぶり。
えーわたしは世が求めるいい子優しい子面倒見のいい子、大人が求める所謂聞き分けいい子です。どうぞご見知りおきを。一家に一台あれば役立ちます。言うこと聞きます。飼い殺しができます。手放さないわけにもいかない。


それは家族の問題にまでのしかかる。

「(祖父母の)近くにいてくれて安心する」
「優しくていい子だから」
「将来は面倒見てくれるもんね」
「頼りにしているからよろしくね」

言葉がわたしを作っていった結果、

優しいという人の気持ちを殺す言葉で、わたしの周りは自分の欲や弱さを押し付けてくる。
先日、家を追い出された後も両親と祖父母側のわたしの優しさにつけ込んだドロドロとした醜い争いが行われてる。

いつの間にか優しいと言われることは強さや誇らしさでもなくて褒められることでもなくて我慢して自分を押し殺すことにすり替わっていった。

それなのにわたしはこれまで他人の言葉通りに生きてきたから一人になるとすぐ自分が分からなくてふらふらしてしまう。

だから大丈夫って言ってくれたら大丈夫だとも思える。

大丈夫大丈夫大丈夫、大丈夫大丈夫わたしは大丈夫?

コピーペーストみたいな言葉で安心させて心を守って。

大丈夫ってなあに。
何が大丈夫なのか、沢山大丈夫を羅列させてもはや文字も意味ももわからなくて辞典で意味を引く。

1あぶなげがなく安心できるさま。強くてしっかりしているさま。
2 まちがいがなくて確かなさま。

社会的に言ったら、おどけて綱渡りして危ないと思う。アウト。
安心という点では、親しい人には絶対的な安心と愛情深さを与えられる自信がある。
強くてしっかりしている。
あぁ…ここでもしっかりしているが出てきてしまった。しっかりしている子からは抜け出せない。大丈夫に見えてしっかりしてるけど、それでもいいけどちゃんと人を頼りたい。頼らなきゃいけない。
間違いとか正しいではなくて何を信念とし自分を貫けるかだと思う。
もちろん、正しさってあるのだけど、時にそれもまた人を救わない。正しさだけが正しいわけではない。

結局、自分は安心と甘えられる他人に自分の存在を任せ、何度生き返ってエンドロール探しても愛という言葉で死を迎えてしまっている。

初めまして。
新たな飼い主探してます。
わがままで主張の激しいけど良い女̀です。宜しくお願い致します。

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