『信長死すべし』被害者って何だ?

本能寺の変。

「敵は本能寺にあり」と、明智が信長に謀反し、信長は京の本能寺で舞を踊りながら焼け死んでしまいました。けれど、明智はすぐに中国地方から引き返してきた秀吉に負けてしまいました。三日天下でした。

これが小・中学校で習う大まかなストーリーである。

実行犯/加害者と被害者が明確なこの変。
しかしなお、本能寺の変が今でも我々の興味を引き付けるのは、やはりその動機である。そして、動機の捉え方により、研究考察や歴史小説の筋書きが大きく変わる。

さて、『信長死すべし』(山本健一、角川文庫)である。

「正親町帝による使嗾」という仮説が冒頭で明らかにされるのだが、これにより、多くの戦国モノでは脇役である登場人物(帝、公家、連歌師)が「視点人物」として生き生きと描かれる。

特に、連歌師・里村紹巴と明智との対峙。

このやりとりは映像化不可能の大立ち合いである。具体的には紹巴の「終始無言を貫く中での心の動き」は百戦錬磨の名優も演技で表現することはできまい。活字表現ならではの面白さである。

※戦国時代の連歌師は、茶人のように諜報能力や交渉能力に秀でた者たちであり、これらの能力により、政に大きな影響を与えた存在であった。

前半、文体に「軽さ」を感じるが、その違和感は読み進むにつれて馴染み、上記脇役の振る舞いは企業小説にも連なる「人間の業」を堪能させてくれる。
また、信長の遺体が見つからなかったことは、この物語および仮説において殊の外重要な意味を持つのだ。

そして、読後の読者感情は、加害者としてではなく、被害者としての明智に注がれる。

歴史小説の巨匠作品群とは異なるテイストを味わえる良作である。

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