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2021年、年初の覚え書き。

お正月に実家で過ごしていると親戚のおじさん夫婦が来た。おじさんは父とゴルフへ向かい、おばさんは家の中で母と話していた。子供の頃からよく知る存在なので私も時々話に混ざりながら気楽な時間を過ごしていたのだが、母に対して私がピリつく瞬間があった。

おばさんが、私に向かって子ども3人産んだけど体型変わらないわね〜と声をかけた時だった。私が返事をするより先に母が、「そんな事ないわよ、昔に比べたら大きくなってるわよ。」と答えたのだ。カチーーーーン!!!ときた。ムカついた。ムカついたけど瞬間的に何も言い返せずにその場を離れた。台所へ行くと妹が居たので今起きた出来事を話した。話しながら自分が何にムカついたのか理解した。

敬愛する坂爪圭吾さんの記事で心に残っているフレーズがある。「ムカついている時はそれをハッキリ言えなかった自分にムカついているのだ」というようなニュアンスだった。

そうだそうだ、ハッキリ言えなくて私は悔しいのだ。自分に腹が立っているのだ。そうだそうだと心の中で唱えつつトイレに入り、再度客間へ足を運んだ。

すると幸いなことに(?)、おばさんがまた同じ話をしてくれたのである。デジャヴ!!
このチャンスを逃すわけにはいかない。
案の定、母はまた「そうでもないわよ、昔の服なんか入らないはずよ。」と答えてくれたので、はっはっはっ!!!罠にかかりおったな…!!!というタヌキを仕留めにかかる猟師のような表情で母の方を振り返った。

「ちょっとお母さん!!失礼だなぁ。それって本人が言うならまだしも、他人が言うセリフじゃなくない??」

みたいな事を割とスパっとした感じで言えた。2度目ということもあり怒気を含んでいたはずだ。
おばさんは笑いながら、そうよねぇ〜と言ってくれた。母も一緒に苦笑いしていた。
私は言葉にする機会をくれたおばさん&母のコンビに心の中で感謝した。清々しい気持ちで客間を去り、妹にことの顛末を話して2人で笑った。


自分の気持ちを表明することを大切にしたい。相手がどうあれ、自分の心がどう動いたのかは表明したい。


ところで、私は母に「他人」という言葉を使った。母は他人なのだろうか。母がおばさんに放った言葉を振り返ると、私のことをまだ自分の一部のように考えているように感じる。自分に言われた気持ちで謙遜の言葉を返したのだろうか。肉体が別であれば親子であっても他人だと考える私は冷たいのだろうか。
母と私の間で境界線のズレを感じる。ついでに言うと世代的なズレもめちゃくちゃ感じる。当然と言えば当然だ。
そしてこれは私と子ども達にも当てはまるパターンになる。お母さんズレてんな、めんどくせぇなと思われる未来がくる。これも30歳も年が離れてたら当然だ。それとも風の時代はこの感覚が変化していくのだろうか。
水瓶座は年齢や性別やあれやこれやの区分を超えたコミュニケーションをイメージさせる。


お正月だったので、この時期は親や肉親に対して同じような気持ちになっている人がたくさんいるんだろうなぁと想像していた。日常を共にしない人と過ごす時間はストレスが発生しやすい。
最初の私のように何も言えないまま実家を去る場合と、2回目のように気持ちを表明して去る場合とは何か違ってくる気がする。
ものすごく小さな事だけど、こういう事は抜き忘れたトゲのようにじんじんと疼くような痛みを残すように思う。



ダイヤモンドはダイヤモンドでしか磨けないと聞いたことがある。人も同じだと。
この考え方は好きだ。磨かれてると思えば人との衝突も悪いことばかりじゃない。
別に本当にそうじゃなくてもいい。その見方を持ってるだけで世界が少し変わるのだから。
そういう言葉をトランプのようにたくさん集めたい。
ワイルドカードだけのトランプを胸ポケットに忍ばせていたいな。


そんな2021年初の覚え書き。

新年早々読んでくださった皆様、ありがとう。今年もよろしくお願いします。


なーんてね。


読んでくれてありがとう♡ 燃え尽きて死ぬまでの燃費代にします🙏