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自己肯定感に騙されるな

自己肯定感という言葉をあちこちで耳にするようになって久しい。
かくいう私も自己肯定感が低くてモヤモヤしていたタイプだ。何とか自己肯定感が高い人間になりたい…と、色んなことを学んだり試したりしていた。
思いっきり振り回されていた。必死だった。
自己肯定感の低い私は駄目なんだと、いかにも自己肯定感が低そうなことを思ったりしていた。

自己肯定感が高い人はいつもご機嫌なんだと聞けば、そうじゃないのにそんなフリをして自分の首を締めては爆発していた。

でもある日、疲れた。
そんなにご機嫌良いのが素晴らしいのかよ、知らねぇよ、これが私なんだよ!!!と自己肯定感をぶん投げた。皮肉な事に、この時が自己肯定感爆上がりの瞬間だったと思う。


少しふざけて書いてしまったけど、自己肯定感なんかどうでも良いと思えたらめちゃくちゃ気持ち良かった。そんなもん高くても低くても自分は自分だと思えたらいいのだという結論に至った。


それからは自己肯定感についていちいち気にしなくなったのだけど、近頃気付いたことがある。
私を含めて自己肯定感が低いと自認してる人は、実はそこそこ高いのだということに…。


「私は自己肯定感が低いので…」という言葉が出るのはある程度自分を知っていたり、知る作業をした人なのだと想像する。
もうその作業をしたという時点で自分に矢印が向いている。自分に興味があるのだと思う。

自分自身に興味を向ける価値があると判断しているから、自分を肯定している事に繋がる部分があるように思う。

もし本当に自己肯定感が底までいってしまってるのなら、自分に興味を向けることもないのだろう。自分なんかどうでもよくなっちゃうのだと思う。勝手な私の想像だけど。
同じように自信の無さからたくさん資格を取ったり肩書きにこだわったりする人も、自分にそれを施すくらいには価値があると判断しているんじゃないかと思う。


そんな事を最近考えていて、自己肯定感が低いと気付いちゃってる人はもうその時点でそこそこ高いから、そんなに気に病まなくてもいいのでは??などと過去の自分に向かって生温かい眼差しを向けている。

きっと、過去の私はそうしたかったのだと思う。自己肯定感のせいにしてウジウジしたかったのだ。
そしてその過程も、今の私を創り上げるのに必須工程だったのだと思うと愉快な気持ちになる。


自分が嫌いとか好きとか、どうでもいい。どうでもいいというか、別にどっちもあっていい。
今は嫌い。今は好き。みたいにその瞬間瞬間で自分に対する気持ちも変わっているから、縛られなくていいかなと思っている。



そんな徒然を、冬至の前に。
おやすみなさい。


読んでくれてありがとう♡ 燃え尽きて死ぬまでの燃費代にします🙏