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acting:私の不在を考える

この記事では私が演じること、舞台に立つことを通して感じたことを書いていこうと思っています。

詳しい舞台作品についてや個人・団体のことを特定できるようの内容は記しません!
批評でもありません!

ただ思うまま書いていく。
垂れ流していく。
それだけです。


現在、舞台活動はお休みしてます。
去年の12月に出演してからしばらくは日常生活に向き合うことを選択しています。

役者を辞めようとか、芝居をやめようとかは考えていません。

今までがむしゃらに芝居に向かい続けた結果、自分の生活、性質、生き方などに目を向けることが出来なくなっていました。出来ないというよりは避けていた、という方が正確です。

まず、お金に対してのだらしなさ

とにかくギリギリの状態をずっと続けていて、頑張れば仕事ができるとしても、芝居のことを考え出すとそっちばかりを優先してしまい、時間もお金も全て芝居優先。生活が苦しくても、それによって迷惑をかけることがあっても、「芝居をする為に生きているのだから」と甘えて貧乏な生き方してきました。

確かに、芝居だけで生活は難しいです。

でも、アルバイトでも正社員でも働き方を選べば、ちゃんとバランスを考えて時間配分をすれば、いくらでもやり方はあるのです。

私はそれをやらなかった。
ただ怠けただけですね。

そこにはこのような思いがありました。

・芝居だけで生きていくことの憧れ
・芝居以外の仕事に時間を割いている人たちに対しての蔑み
・役者が職業として見做されていないことへの憤り

この業界や役者という職に関して感じる不満を持つこと自体は悪いことではないと思います。しかし、他人のやり方や考え方ばかり気にして、じゃあ私は?それに向けて私は何をするのか、どうしていくのか?については、あまりにもぼやけていました。ただ信じて必死にやれば他のことは放っておけば、どうにでもなると全て(自分)を後回し。

自分が不在のまま。だから、人のことも馬鹿にしてなぜその人がそうしているのか想像ができていない。役者は想像をすることも大切な仕事であるにも関わらず…。


もうひとつ、人との関わり方の下手さ

そもそも、人とのコミュニケーションが苦手で、特に大人数は苦手でした。親友と呼べる人も特にいません。小中高とその時々で仲良くなる人たちはいましたが、そのあとの関係が続いていくことはほぼなかったです。

何でこういう性格になったのかは、もはやわからないのですが…。しかし、芝居の世界でコミュニケーションが取れないのは致命的だなと実感しています。

私が思うコミュニケーションというのは
相手に喜んでもらう、安心してもらう、楽しんでもらう、自分の考えを伝えるなど。単純にちょっとした気遣いをすることとか。私はそういうことを避けたりめんどくさがってしまうところがあります。

我ながら性格の悪さを感じます…。

何をするにしても、この人とは一緒に仕事がしたいと思ってもらえることってすごく大事だと思うんです。私は一度出演したところからもう一度出演をお願いされたことがありません。それがひとつの答えだなと感じています。

稽古場での居方だったり、カンパニーとのやりとりだったり、作品作りの上で、私という人間がここに居るということを私自身があまりにも軽視している。周りの人と仲良くすることやコミュニケーションを取ることを怠けては作品は作れないのです。

一緒に作品を作る周りの人から学んで、得られるものをもらって、協力してもらい、時には私が与える側になってお互いに良いものを作っていく。相手を思う心がないのは、私が私を思う心がないからです。自分の好き勝手にやって事がうまく運ぶほどの実力もないのになんて烏滸がましいのか…。

そんな私には「いいものを作るために犠牲になるものは自分。そうあるべき。」

というトンデモナイ思想が蔓延っていました。
ほんとにトンデモナイ。

こういう考え方を人によってはストイックだとか、いいように思ってくれる人もいました。しかし、他人には決して押し付けてはいけない考え方です。私は押し付けているつもりはなかったけれど、稽古場での態度はそれを暗に示しているものだったと思います。


私は芝居をしていく事で社会と繋がっていると感じています。同時に、社会で生きていく上で欠落している何かがあると気付かされます。

私の本質的な部分は芝居をしたから形成されたのではなく、元々あるものが芝居を通して浮き彫りになったのだと思います。

遠回りかもしれませんが、今やっと自分に向き合えているのは芝居のおかげです。

不在だった私の存在を少しずつ認識しています。

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