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日曜日の穏やかな街で頭がおかしい人とすれ違うことについて(解説 及川美雪)

 人で賑わう日曜日の穏やかな街で僕は頭がおかしい人とすれ違う。彼女(場合によっては彼)は日常生活ではとても耳にしないようなワードを、日常生活では不必要なほどの声量で叫び続けている。たとえば「我が日本国の右傾化した──」「私じゃない!あの男がすべてを狂わせたのだ──」「物質主義的な生活に依存するお前たちの──」のようなものだ。そうでなくてもただでさえ大声なのだから「サーティーワンアイスクリームの新しい味が美味すぎるんだ!」なんてポップで子供ウケする内容であったとしても、街行く人々の中に、まさかそれがサーティーワンアイスクリームの斬新な宣伝広告だと思う人はいないだろう。とにかく、街で大声で何かを主張している時点でその人は「頭がおかしい人」と認識される。


 10月の日曜日、僕は新宿の飲食店街をあてもなく歩いていた。まあ実際は目的があったわけだけれど、どうも気分が乗らず予定を変更し辺りをのんびり歩いていた。時刻は夕暮れ前、休日を満喫する家族や酒を飲むための店を探す男たちや、買い物終わりなのか両手に大きな袋を抱えた若い女子たちが街を行き交っていた。

 そんな賑やかさにも疲れ、家まで帰ろうと駅の方へ向かい始めたとき、高音の、耳を鋭く切り裂くような女の叫び声が聞こえてきた。

「みんなきけ!私がおまえたちを助ける!終焉がもうそこまで迫っているのが分からないのか!世界は破滅するんだ!」

 僕の前方、人混みがいっせいに脇道に寄るとその奥から白いワンピースを着た4、50代の女が現れた。

「私は見たんだ!世界の破滅を!聞け!████神が私に託した!人々を破滅から救えと!」(████の部分は何度聞いても聞き取れなかった)

 女はそう叫んでいた。

 女の周りの人々は言うまでもなく彼女に注目していた。怖がる者、早足に去って行く者、興味深そうに女を見る我が子に「見てはいけない」と無言の注意をする者。そして何より大半が女を笑った。圧倒的に多いのは男の集団。彼らは顔をニヤつかせ、お互いの顔を見合い、何かを囁き合う。その中の「おもしろ担当」なる一人が女に対して(あくまでも一定の距離を保った安全圏から)、挑発するような言葉を飛ばす(大抵は「かっこいい!」とか「かわいい!」とか誰もが思いつくレベルの低い皮肉だった)。

 アパレルショップからわざわざ飛び出し、女を見て笑う店員も多かった。

 僕は周りの観客と女を同時に見ながら、女の横(と言ってももちろん接近はしていない)を通り、いくつかのポイントを確認する。

 まず、女の鞄や服にヘルプマークは下げられていなかった。

(ヘルプマークとはこういうものです)

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https://www.fukushihoken.metro.tokyo.lg.jp/shougai/shougai_shisaku/helpmark.html
(もちろん、これを下げているからどうとか、下げていないからどうとかという話ではなく、その奇行の理由が本人から周囲に目に見える形で示すことができているかどうかという点で、まずはヘルプマークの有無を確認した)

 近くで見るとやはり年齢は4、50代に思われた。が、老けて見える30代でもおかしくない顔だった。そういう人はたまにいる。ワンピースは所々くたびれてはいるが異臭はしない様子──いや、異臭。恐らく彼女のだ。街のではない。履物は裸足にサンダル。そして何より、嫌な痩せ方をしていて不健康であることは間違いない。

 このように僕は街や電車内で「頭がおかしい人」と認識された人をよく見て、それを覚え、頭の中でファイル分けをする。それを続けていくと、たとえ奇行で目立っていなくても、彼女/彼が「頭がおかしい人」と認識される人かどうかが分かるようになる。それは服装をはじめ、髪型や座り方、身体の動かし方や呼吸の仕方一つでさえ十分な判断材料となる。

 情報収集を終えた僕は、女と女の奇行の観客たちを後にした。駅に向かう道は先ほどまで女が通過していた道らしく、人々はまだ女の背中を見つめていた。彼女の叫び声が遠くから聞こえると、客たちは「やばいな!」と楽しそうな声を漏らし、女の背中と仲間の顔を交互に見て、幸せそうに笑った。


𓅌

 最近はもうほとんど妄想の世界にいることが普通だ。自分はまだ子供で、お母さんとお父さん、あとはときどき弟か妹がいる。お母さんは夜ご飯の支度をしていて台所から何かを煮る音と醤油ベースの良い香りがしてくる。「お腹すいたー」と台所に向かって言うと、お母さんは優しい声で「もう少し待ってなさい」と言う。私はお母さんがしてくれる優しい言い方の注意が好きだった。「うん、わかったー」と返事をすると、お母さんは「この子は素直な子ね。将来はいい大人になるわ」と思っている。とっても嬉しい。弟(または妹)はいつも私のそばにいて「お姉ちゃんー」と甘えてきたり、勉強教えてと学校の宿題を持ってきたりする。上級生の私にはとても簡単な問題ばかりで、優しく教えてあげると「お姉ちゃん天才!」と褒めてくれる。私は嬉しくなってもっとサービスしてあげたくなる。

 料理が完成し、私たちが食卓に食器を並べたりなどしてお母さんを手伝っていると、玄関に車の音が聞こえてくる。お父さんが仕事から帰って来たのだ。ただいまーと言うお父さんに抱きつくと、お父さんは右手に持った箱を食卓に置く。

「すみこはモンブランでよかったんだよな?」

 ケーキである。

 私は「ご飯の後にしなさい」と止めるお母さんの言葉を無視して箱を開けケーキを取り出す。チョコレートの棒や砂糖菓子のお人形が乗った贅沢なケーキだ。お母さんは「お父さんも注意してよ」と言うが、お父さんは、まあまあいいじゃないか。すみこは食べ盛りだからお母さんの美味しいご飯も野菜も残さず食べるよ。と言ってくれる。お母さんは「しょうがないわねー」と言いながら自分もケーキを選んで、台所から小さいフォークを持って来て私より先に食べ始める。「なんだお母さんも食べるんじゃないか笑」と私は思う。お父さんは「こらこら、ご飯の後にしなさい」と言って、自分もケーキを選び始める。お母さんのかぶせだ。「お父さんも笑 私のお父さんは笑いのセンスがあるんだよな笑」と私は思う。弟/妹は既にケーキを素手で食べ始めている。「もー笑」と私は思う。みんな口にクリームをつけながら「美味しい美味しい」と笑っている。

 なんて幸せなんだろう。こんな幸せな時間がいつまでも続けばいいのに──。

 そこへ悪魔が現れた。「ああ、やはりか」と私は思う。

 悪魔が母に触れると、母は目の色を変えて私を殴った。悪魔が父に触れると父は砂になって消えた。悪魔が弟/妹を触ると、彼/彼女は悶え苦しみ私の首に手を伸ばし、力一杯締めた。私は薄れゆく意識の中、いつになればどこにもいない存在になれるのだろうか。と思った。


 江崎すみこは眼を覚ました。先週から隣の空き地で建設工事が始まり、昼の二時過ぎになると始まる重機を使った大掛かりな作業によって、辺りは騒音に包まれる。彼女の住むどうしようもない造りのアパートは工事の振動で軋み、とても寝ていられる状態ではなくなる。日中働けていれば、こんな時間に家にいる必要もないのだが。と、そんなことを考える力すらもう彼女には残っていない。彼女は現在45歳で、2ヶ月後の10月には46歳を迎える。死ねば楽にはなるが、死ぬという道を選ぶことさえ今の彼女には難しい。精神病を患ってはいるが、彼女がそれを認識することはもうない。ただ呼吸をしているだけの人間の形をした陶器。それが彼女だ。

 もちろん、生まれながらにして人間の形をした陶器だったわけではない。ただ、環境が悪かった。不幸が多かった。そう言えば簡単だが、そう言ってあげることしかできない。

 彼女に母はいた。しかし父はいなかった。彼女は母の正美と二人で暮らしていたが、正美はときどき意味も無く彼女を殴った。彼女が小学6年の時に正美は統合失調症(当時は分裂症と呼ばれていた)と診断された。正美は入院したがその1年後に自殺した。彼女は祖母に引き取られたが、独り身で老衰した祖母は彼女の面倒を見れる状態ではなかった。彼女は祖母の介護をしながら中学に通い、祖母の年金だけでは足りない生活費をアルバイトで補った。もちろん、女子中学生を雇ってくれる会社はなかった。彼女は街で男に声をかけて身体を売った。その頃はテレフォンクラブが導入され始めた時期で、彼女は年齢を偽りテレクラで男を捕まえた。初めは順調だったが、ある夜に出会った男に酷い暴力を受けた。警察に行くべきではあったのだが、男は彼女が未成年であることや行為中に撮影されたビデオを使い言葉巧みに彼女を脅した。大人しく泣き寝いる以外の選択肢は彼女の知能では考えることができなかった。そして彼女は身体的にも精神的にも、もう二度と男と交わることのできない状態になってしまった(もちろんそれは45歳になった今でも続いている)。

 援助交際で生活費を稼いでいる間、学校では同級生に卑猥な噂を立てられていた。そのせいで中学を卒業するまでの間、クラスの男たちからは陰湿で性的ないじめを受け、女子からは無視され続けた。三年の夏には数人の卒業生の男に強姦されかけた。彼女は汚物として扱われ続けた。そして実際に、祖母宅での生活環境は酷くなる一方で、彼女はお世辞にも清潔、健康とは言えない身体になっていった。

 中学卒業を控えた2月に祖母が死に彼女は一人になった。高校へは進学せず16歳で働き始めた。援交していた頃に出会った男が風俗店や水商売の仕事を持ちかけて来たが(男に何らかの利益があるのだろう)、彼女にはもうその類の仕事をこなす力はなかった。彼女は倉庫管理のアルバイトを始めた。給料は大して良くないし、作業も楽ではないが、できるだけ人と関わらないでいられる仕事がよかった。

 家族は死に、友達はいない、同級生は皆高校へ進学し、新しい友達や恋人を作り青春を謳歌しているだろう。しかし、当時の彼女はそれでも幸せを感じていた。暴力を振るう母はいない。男に身体を売らなくていい。毎日三食、栄養と食べやすさを考慮した食事を祖母のために作らなくていい。同級生からのいじめに耐えることもない。無視されても傷付かないように自分を騙す必要もない。もう私は誰かのために生きなくていい。

 仕事をし、ご飯を食べ、寝る。誰とも関わらない。誰とも関わらなければ誰も自分を傷付けない。私も誰も傷付けないから、誰も私を傷付けないでほしい。彼女はそんな毎日を送った。


 そして、気が付くと彼女はそのまま40歳になっていた。

 彼女は40歳になっていたのだ。

 もちろん、彼女が16歳の時点でそんな未来を知っていたら、何か少しでも未来をましにするための行動を起こしていたかもしれない。だが、彼女はそうではなかった。16歳から20歳になり、24歳になり、28歳になり、35歳になり、そして40歳になった。ここではその24年間を二行で書き表して、あたかも何もなかったように書いているが、当然彼女にとっては長い人生で、その間には楽しいこともあった。短期で入っていたアルバイトの大学生が演劇のチケットをくれたことがあった。帰りに美味しいラーメンを食べたりした。倉庫が休みの土曜日に野菜の直売市場を歩いたりした。

 しかし、それらは彼女の人生の根本にある問題を解決はしなかった。

 そして、彼女が蓄積してきた静かな闇が姿を現し始めた。

 41歳の冬、彼女は職場のトイレで手首を切り自殺を図ったが未遂に終わり病院に運ばれた。出血はすぐに止まり命に別状はなかったが、メンタルヘルスに問題を見出された。臨床心理士のカウンセリングを受け、精神科医にかけられた。そこで正式に精神障害が認められれば福祉面での様々なサポートが公に受けられて、少しは生活が楽になったのだろうが、不幸にも彼女にはそれが認められなかった。

 43歳の夏、市販の乗り物酔い防止薬を故意に大量摂取し急性中毒症状で病院に運ばれた。一命は取り留めたが、その後、彼女の双極性障害が認められ入院治療となった。主に服薬とカウンセリングで治療が進められ、休養指導では手芸や絵画などが行われた。この期間は彼女にとって少しは良いものになった。休養指導の、特に手芸で彼女は才能を発揮した。人生で一度も触った事のない編み針を使いこなし、基本の棒針編みから難易度の高いアフガン編みまでマスターした。 

 44歳の秋の終わり、彼女は精神病院を退院した。3ヶ月と28日に及ぶ入院生活は彼女の人生にとって最も人と関わった充実した生活だったと言えた。

 退院後、彼女は相談支援事業の援助のもと障害福祉サービスを受け、社会復帰のためのリハビリテーションやグループワークに積極的に参加した。しかし、それも最初の3、4週間の話で、退院してから2ヶ月が経つ頃には自宅に篭る生活が基本となり、人と会うことはほとんどなくなった。

 だが、彼女は以前のような自殺未遂も、薬物中毒も起こさなかった。しかし、その日々はとても生きている者の生活とは言えなかった。彼女はささやかな障害年金で最低限の食べ物(全て調理済み食品であった)を買い、それを食べ、眠り、起き、それを温め直し食べ、眠った。週に1、2回、口に入れるものを買いに出る時以外は一切外出しなかった。その1、2回の外出でさえ、もはや彼女の意思によるものではなく、ハエが糞に集まるのと同じような本能行動に過ぎなかった。

 その生活が始まって半年が経った頃には、わけもわからず自分の排泄物を口に運ぶこともあった。

 母に暴力を振るわれるようになった10歳から自分の排泄物を食べるようになった45歳までの35年をかけて、彼女はゆっくりと人間の形をした陶器になっていったのだ。

 しかし、陶器になった人間にも生きている限りは意味が発生するらしく、彼女の生活の中で辛うじて内容があったものは、彼女が見る夢/妄想だった。睡眠中の夢はもちろん、ただ壁を見つめている時間や畳を触り続けている時間にも彼女は夢を見た。最初のうちは楽しい夢が多かった。存在しなかった父や弟や妹、優しい母や元気な祖父母。仲の良い女子グループや、秘密を打ち明けられる親友。憧れの先輩と、自分を好きになってくれるクラスの成績の良い男子。行かなかった高校の行事、修学旅行。大学──は夢の中でも遠い存在なのか、あまり鮮明には映し出されなかったが、就職する事のなかった会社の歓迎会。頼りになる同僚。社内恋愛。結婚、出産、そして我が子の成長。存在しなかった様々な人間関係。無難だが理想の人生。もちろんそれらを彼女が正しく認識できていたかは分からない。それでもその夢は決して悪いものではなかった。しかし、そんな夢を何周もしているうちに、どこからか悪魔が入り込んできた。現実で自分が体験した以上の暴力を母に振るわれる。祖母を背負って真夏の猛暑日を何キロも歩かされる。見知らぬ男たちに拉致されて立ち上がれなくなるまで犯される。ベッドに寝かされ拘束具で四肢を固定されこめかみから電流を流される。悪魔は彼女にそんな夢を見せた。だがそれは彼女にとってはまだ耐え得る痛みだった。現実で体験した痛みを少し大袈裟に描いただけのものならば、一度受けているぶん耐性がついていた。

 しかし、一つだけ耐え難いものがあった。

 それは、彼女と同じ歳で、彼女と同じ時代を生きた人々が歩んだ、自分とは真逆の人生の夢だった。自分をいじめたクラスメイトたち、もちろん顔や名前などはもうとっくに忘れてしまっているが、彼らが歩んだ人生を悪魔は鮮明に彼女の夢に映し出した。彼らは高校に進学し、青春を謳歌し、大学に行き、彼女では到底理解できないようなレベルの高い学問や専門的な知識を学び、就職活動に専念し、または音楽や芸術に精を出し、立派な大人になっていく姿。私をいじめた人々が私のことなどとうに忘れて、それぞれの人生について真剣に悩み、苦しみ、そして最後には幸せを掴み取り笑っている姿。若い頃はそんなことを考えてしまっても嫌な気分にはならなかった。まだ自分にも時間があったからだ。しかし、45歳。45歳だ。彼らはある程度のものを得ていて、既に落ち着いた位置から世界を見ている。もうこれ以上そう多くのものは欲さないでいられる。人生の要領を掴んでいる。あらゆる「おおよそ」を理解している。では、私はどうだ。私はまだそのスタート地点にすら立てていない。まだ16歳のまま、いやまともな小学6年生ですらクリアできていないじゃないか。
 そして悪魔というのはとことん性格が悪く、彼女の要望に添うように、彼らの充実した人生の隣には必ず彼女の惨めな人生を配置した。

「彼らを見ろ。そしてお前自身を見ろ。どうだ、これがお前の人生の悲惨さだ。なぜこんな酷いことが起こるのかって?そんなことに理由などない。ただ差異がある。それだけだ。お前を救うものは何もない。もう誰もお前のことなど覚えていない」

 悪魔は常にそんなことを彼女に囁いた。

 彼女は居場所を失った。終わりを迎えた現実から唯一逃れられる安息の地である夢/妄想も彼女を見捨てたのだ。そして彼女は諦めるに至った。希望を捨てた。いや希望などもうとっくに捨てていたのだが、その最後に残った「何か」を手放すことができたのだ。

 45歳の9月15日、46歳の誕生日を迎える1ヶ月前。彼女は水道の蛇口を手の甲で撫で回しながら夢/妄想を見ていた。

 いつものように途中で悪魔が登場し、楽しかった夢を崩壊させようとした時、彼女は悪魔の目の奥に今まで見た事のない何かを見つけた。それは、邪悪さや理不尽とは程遠いものだった。悪魔の目の奥にいる何かは彼女に何かを語りかけているようだった。──あなたは████神? 何かはそうだと答えているようだった。──なぜ? 何かは彼女を見つめ、語り始めた(彼女にはそれが語っているように感じられた)

「君は死ぬ。死ぬことが君のために用意された物語だった。ここでいう死は肉体がなくなる事ではない。もっと根本的な死。君には根本的に死ぬことが求められる。けれど、君はきっと悲観しないだろう。なぜなら君はそれを求めていたからだ。そしてたどり着いた。分かるか?」

 彼女にはそれが手にとるように分かった。彼女にとってこれが初めての〈共有〉だった。

「君は死ぬ。だが、最後にするべきことがある。もう二度と君と同じ人生を歩む者が現れてはいけない。それは私にとって不利益になる。もう二度と江崎すみこを産み出してはいけない。分かるね?もう二度と人生という世界の破滅を経験する者を産み出してはいけない。一個人の人生の絶望は、世界の終焉を意味する。君がそれを救わなければいけない。そして何よりも、君自身が産まれて初めて、自分が存在している理由、何故これほどまでの苦しい人生を生きなければならなかったのか。その真実を掴むことができる。君の体験は想像を絶する。だが、それは必要だった。私にとっても、君にとっても。これは謂わばウィン-ウィンの関係だ。最も君はその言葉を知らないかもしれないが。とにかく、君のどうしようもない人生、いやもはや人生というにはあまりにもお粗末な生。そしてその終わり、君の死、江崎すみこの死亡は無駄にはならない。君が人々を救うことができれば!

 そう言うと████神は彼女に優しく触れた。

 彼女の身体は細かく、いちばん細かいところまで分裂し、彼女は現実および夢/妄想の中で初めて、死んだ。

 江崎すみこは45歳の9月15日にそんな夢を見た。それはあくまでも夢/妄想で、水道の蛇口を手の甲で撫で回している刹那の白昼夢に過ぎなかったが、彼女を動かすには十分な効力を持っていた──。


 そして、46歳を目前にした10月の日曜日。

 江崎すみこは白いワンピースとサンダルを履き(それ以外の衣服は持っていなかった)、彼女の住む近辺で一番賑わう夕暮れ前の新宿の繁華街へと向かった。

「私と同じような人生を歩む人間を生んではいけない!もうそのどうしようもない人生は私が嫌と言うほど体験したもの!もう誰も傷付けはさせない。もう誰も私と、江崎すみこと同じような悲しみを背負わせはしない!私はやはり誰かのために生きなければならない!

 彼女の頭の中にはこれ以外の考えは何一つなかった。というか考えることができない頭になっていた。自分の存在理由、それは自分の人生を犠牲に自分のような人々を救い、そして死ぬこと。それが████神が私に与えた使命だと。

 そして、新宿の飲食店街に着いた彼女は震える痩せ細った身体に鞭を打ち、ほとんど食べ物を通していない惨めな喉で、人生最後の力を振り絞ってこう叫んだ。


「みんなきけ!私がおまえたちを助ける──」


𓅌


 そんな物語を考えていると、車掌のアナウンスが聞こえてきた。次が僕の降りる駅らしい。僕は耳たぶを引っ張って現実の世界に戻る準備を整えた。
 いや、しかし、この想像は我ながら良い出来だと改めて自分の才能に感心した。たった一分程度の出来事からここまで話を広げられるのだ。
 僕は自分がまともな人間に生まれ、まともな環境で育てたことに感謝した。

 ──駅に降りた時、ふと、どこからともなく僕の中に一つの疑問が浮かんできた。

「果たして今僕が想像した物語は、本当にただの想像に過ぎないのだろうか」

 たとえば、この物語をそっくりそのまま、あの女を見て笑っていた人たちに聞かせてみたらどうなるだろう。紙にプリントしてあの飲食店街で配ってみたらどうなるだろう。女と同じような大声で「あの女の頭がおかしいのにはこういう理由があるんだ!」と叫んでみたらどうなるだろう。

 それでも彼らは彼女を頭のおかしい人だと思うだろうか? 彼女を怖がるだろうか? 彼女を見なかったふりをしてどこかへ去って行くだろうか? 彼女を馬鹿にし、仲間たちと笑い合うだろうか?
 僕が彼女のために本気で努力すれば、案外簡単に彼らの心を揺さぶることができるのではないか──。


 と思ったが、僕は正気に戻る。
「どうせ僕が笑い者にされて終いだろう」

 改札を出る時には既にさっきの女のことなど露ほども考えておらず、10月にしては冷たい夜風を浴びながら、もう冬だな。なんてことを思っていた。



 感想・解説 筆者の知人の主婦 及川美雪

 この短編小説『日曜日の穏やかな街で頭がおかしい人とすれ違うことについて』は二つの場面で構成されています。僕が街で頭がおかしい女とすれ違う現実の部分と、帰りの電車の中で僕が想像した、頭がおかしい女「江崎すみこ」なる人物の頭がおかしくなり、彼女が新宿で叫び声をあげるに至るまでの半生。その後、僕は現実に戻り「これは単なる想像に過ぎないのだろうか」という自問をします。ここには一体何が隠されているのでしょうか。私はそんなことを考えながら夫の朝ごはんを作り、子供を保育園に送り、家で家事の続きをしていました。すると、私の中にある記憶が思い浮かんできました。私が大学生の頃、作中の僕と同じように街で「頭がおかしい人」とすれ違ったことがあるのです。その男はよく分からない内容の話を大声で訴えていました。その時私は「怖い」としか思わず、その場からすぐに逃げました。一緒にいた彼氏(今の夫ではないので言いづらいのですが)も私を守ろうとはしてくれていましたが、明らかに怖がっているのが分かりました。それから数日後、彼氏に「この間は怖かったね」と話すと、彼は何の話かさっぱり分かっていない様子でした。彼は忘れてしまっていたのです。それから私は彼に不信感を抱くようになってしまい、その数ヶ月後に私たちは別れました。でも、私はすぐに後悔しました。私は彼が好きだったのに、どうして別れなければならなかったのでしょう。日が経つにつれてより強く思うようになっていきました。だってよく考えてみると彼に非はありませんでした。そりゃそうです。街で変な人を見たことを忘れたからなんだというのでしょう。その人を怖がろうが、馬鹿にしようが、笑おうが、それが私の人生に何を与えるというのでしょう。長い人生のうちの1分にも満たない出来事を数ヶ月後も数年後も覚えておく必要なんてないじゃないですか。私が思うに作中の僕のような人はほとんどいません。そんなことをして何が得られるというのでしょうか。街ですれ違う「頭がおかしい人」を見て、可哀想だ。とか何か不幸があったんだろう。と思うことはあると思います。が、自分の貴重な人生を削ってまで彼や彼女の壮絶な半生を創作し、それをわざわざ人の目に触れてもらえるような形にする義理は私たちにはありません。そりゃ、私には彼女ほどの不幸は起こりませんでした。少なくとも今までは起きず、新宿の飲食店街で叫ばなければならない特別な状況には置かれていません。それでも、私にはそれなりの苦労もあり、その度にそれを乗り越えてきたのです。今だってそうです。僕は彼女の夢/妄想として、彼女の過去の同級生たちの幸せで安定した現在を描きましたが、それはあまりにも短絡的すぎるというか、独りよがりな被害妄想ではないでしょうか。一般的な普通の主婦を代表して一言言わせて頂きたい。私たちだって街中で大声で叫び出したくなるような日もあるということです。夫は仕事を理由に私に育児を任せきりだし、娘はまだ小さいですが、中学生にもなればコミュニケーションが難しくなるかも知れません。私もパートに行くことになるだろうし、夫との関係がいつまでも安定しているとは限りません。私や家族の将来に待ち受ける不安を数え出すとキリがありません。もちろん、不幸というものに大小はあります。私には母も父もいて、暴力やいじめを受けたことはありませんし、自分の意思に反して、身体を金に替えたこともありません。ですが、自分の進路を父に理解してもらえなかったり、アルバイトをさせてもらえなかったせいで、友達と遊ぶ時に金銭面で気を遣わせてしまったり、「頭がおかしい人」がきっかけで彼氏と別れてしまったりと、私は私なりに不幸と感じる出来事に遭ってきました。それは確かに江崎すみこ的な人物からすればカスみたいなもので、それ以外の恵まれている部分が浮き出し、まるで私が幸せの絶頂にいる人のように見えるでしょう。ですがそれは結局、自分の人生の穴を埋めるための自己防衛に過ぎないのです。人は誰でも自分は不幸であると思いたいものです。そう思っていれば気が楽になるのです。悲劇のヒロインになれるのです。そして、いつか夢の中に神様が現れて自分を救ってくれると思い込むことができるのです。ふざけたことを抜かすな。私はアフリカの子供たちの不幸を思うことができます。そして彼らのためにささやかな募金をすることができます。ですが、アフリカの子供たちは遠くの島国の主婦が家族が好き勝手飲み食いした残骸を片付け、面倒なゴミの分別をしなければならない不幸を思うことはできませんし、しないでしょう。そこに大小はありますが、当人からすれば知ったこっちゃない。世界平和よりも長時間我慢し続けている大便を出すことの方が何百倍も重要なのです。キング牧師もホセ・ムヒカも〈てめえの大便を我慢していない〉をクリアして初めて感動的なスピーチができるのです。クソを漏らしながら世界平和を訴えている奴などいないし、そいつこそが真の「頭がおかしい人」じゃないでしょうか。

 少々、文章に力が入ってしまい、本来するべき解説からズレてしまい申し訳ない。本作の最後、江崎すみこの半生を想像し終え、電車から降り、改札から出たところで僕は江崎すみこのことを一切忘れます。ここが肝だと思います。僕はちゃんと分かっているのです。街ですれ違っただけの「頭がおかしい人」のことをいつまでも考え続けていては自分の人生が進められなくなってしまうということを。だから僕はそれを忘れ、自分の人生の、これから訪れる寒い冬に向かっていくのです。これは要するに、街で江崎的な人物を怖がった私や、馬鹿にして笑った人々と結局は同じところに辿り着いています。ただその間に少しの時間があるだけで、翌日になれば人々も僕も彼女のことなどさっぱり忘れているのです。

 それでいいんだと私は思います。

 最後に、江崎すみこ的な「頭がおかしい人」の不幸と、そういった人物の不幸を想像し、何かしたいと考える心優しい僕と、その文章を読んで感想・解説をする普通の主婦の気持ちを創作し、代弁してくれた筆者に敬意を表します。


 及川美雪(おいかわみゆき)

 1983年 東京都八王子市出身。2001年 堀越学園卒業。2002年 国士舘大学中退。現在一児の母。



 渡辺浩平









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