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あの日見た夢 〜7歳→14歳→21歳→28歳へ〜

また、地元の、子どもの頃の夢を見た。

昔の夢を見るのはしょっちゅうのことで、だいたい出てくる人やパターン、光景は何種類かのものから選ばれて見させられる。

今回も、以前にも何回か見たことのあるパターンの一つで、実家から徒歩2分のひまわり公園周辺が舞台の夢だった。

小中の頃の夢を見るときは決まって ①現状を整理したいとき ②現在の日々を特に怠惰に感じているとき ③現実逃避したいとき のいずれかだが、今回は①だ。転職先を妥協せずに決められた安心感からか、特にストレスがないから、脳が暇つぶしにまた夢でも見させてやるか、と働きかけてるといったところだ。

ついでに、勤務開始まで2週間、特に暇な今することといえば、facebookやツイッターのページを身内から目的もなく巡回することだ。


今回の夢も闇が深い内容なので公言はしかねるが、数人出てきた登場人物の1人が、実家も近所の小中の同級生だった。この人は中3まで同じクラスになったことがなく、たしか7歳くらいのときに一回だけ?そのひまわり公園の鉄棒で遊んだ記憶がなぜかピンポイントであるくらいだった。本当にその一回きりだったかも覚えてないし、一回だけ遊んだとしたらなぜそうなったのかも当然わからない。そんなことはどうでも良いが、14歳で初めて同じクラスになった。

過去のツイッターを徘徊していると、その人は結婚して子どももできて、今は函館に住んでいるらしい。おれが新卒で秒で落とされた金融の会社も辞めて専業主婦をしているようで、しかも札幌ではなく函館で子どもといる毎日は、友達も当然いなく?宅急便の人と話すことにすごく価値を見出している、というつぶやきもあった。


大学3年の後半から4年の頭にかけての就活中、企業の説明会に参加したとき、後方から「すいません、ペン貸してもらえますか?」と声をかけられた。顔を見ると、すぐにその人だとわかった。小さくて可愛らしい、ただ6年ぶりに見る21歳のその人は少し大人っぽく(ちょっと老けて)なっていた。「あれ?○○だよね?」と返答した。説明会後にラインを交換して、就活が終わるまで、たわいもないやり取りを行なった。特にどうということはないが、その一連の事実がとても嬉しかった。こうやってテクノロジーが進歩していなかったら、卒業してから関わることは絶対になかっただろうなと実感した印象的な偶然だった。

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その人は、中学に上がるといわゆる「やんちゃな1軍女子」グループに所属するようになっていた。中3までは関わりがなかったのでそういう目で見ていたが(というか関わりがないのでなんとも思っていなかった)、同じクラスになって、印象は変わった。

決して八方美人ではないが、まさに誰とでも分け隔てなくコミュニケーションがとれる。これは、自分には決して手に入れることのできない特殊能力で、14歳〜15歳という思春期真っ盛りのおれの目にはいわゆる「すげえいいヤツ」に映った。そして10〜11月ごろに席替えで隣になった。


中学の3年間は、とにかくいろいろ拗らせていて、とくに女子と普通に楽しく、自然と話すことがほとんどできなかった。つい最近まで小学生だったころは、6年間「小学生」として男女ともにいろいろありながらも付き合ってきたのに、中学に上がった途端に他校と激しく混ざり合い、みんながみんな「中学生」になってしまった。今思えば、「中1ギャップ」をもろに受け、3年間ほぼ拗らせたまま卒業したように思う。中学のころの記憶が全く輝いていないのは、おそらくその頃にしか感じられなかった、いや、その頃だから感じてしまった「とてつもない寂しさ」からきていたのだと思う。

その人は、明らかに話しかける価値を見出せない当時のおれに、なんの色眼鏡も使わず、普通に話しかけてくれた。最初の頃は本当につまんねえハスに構えた返しをしていたのだろうが、それでも毎日、自然と、しかも楽しそうに、接してくれた。当時中3のクラスが本当に好きではなく、だが一人一人が全員嫌いというわけではないのに、やはり集団に溶け込む能力が著しく欠けていた。

ちょくちょく印象的な楽しい?記憶もあるのだが、やはりクラスとしてはとても居心地が悪く、日々早く志望高に受かってはやくデビューしたい一心で勉強をしていたのかもしれない。もしかしたら、居心地の良いクラスだったら、志望校も落ちていたかもしれないくらいに。

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その人が隣になってから、中3になって初めて、登校することが楽しく感じられるようになった。とにかく人間は、特に女の人は、結局人たらしが最強説を推し続けているおれだが、その起源はここの経験からだったかもしれない。

その人は当時、学年の不良()グループの1人と付き合っていたが、今思えば純粋にピュアに人として好きだったと思う。高校にあがってからは少し丸くなって、いろんな人を男女問わず、恋愛感情も含む含まないもあわせて純粋に好きだな、とおもうようになったが、中学の頃、ピュアに人を好きになったのはこの人だけだった。

彼女は、地元ではかなりの人が進学する隣の地区のH高校に進学したが、正直、もうひとランク上げたK高校が合いそうだな、とか勝手に思っていた。英語は抜群に得意で、学力ABCのどれかで、一度負けた記憶が脳にこびりついている。おれは特に英語に最も自信があったが、それでも負けたのだから、かなり悔しかった。同時に、やんちゃなところもあるのに高得点(たしか57/60点とか取ってた気がする)をとるそのギャップにもやられてしまった。ただたしかそのとき数学で満点を取ったので、面目は保ったことすら記憶に残っている。その子は30点以下だった。勉強は、好きな子に教える行為が最も効果的な勉強法であることを、そのときに確信した。


その期間は、合唱コンクールの時期でもあった。おれはただ男子パートを歌うだけの村人Aだが、その人は課題曲か自由曲の指揮者をやっていた。

ある日、合唱の練習中、その人は泣いた。今まで明るく笑っているところしか見てなかったから、正直とてもびっくりした。練習が終わり普通の授業に戻っても、大げさにアピールするタイプではないのでただただ鼻をすすってシクシクと泣いていた。周りの女子すらどう接すればいいか困惑していたのだから、隣の席のおれなんかは、内心パニクっていた。何もできず、平常心を装ったフリをして席に座っていただけだった。

次の日から、何もなかったかのように練習が再開された。その人も何か遺恨を残すわけでもなく、いつものその人に戻っていた。おれは、どこまでこの人から何かを学ばなきないけないんだ、と感じた。自分ができないこと、手に入れられないものをことごとく持っている。今にして思えば、もう少し先の人生でそういう体験をしていれば、それは嫉妬心に変わるものだったはずだが、そのころの俺は、それを感じるレベルにまでも達しておらず、ただただすげー、としか思えなかった。


そのクラスでは、朝の会で名札が配られていた。前の席から順に最後席のおれらまで、板についた名札が毎朝配られた。帰りの会で、名札をその板に挟み、元に戻すルーティンだった。このつまらない毎日の作業でさえ、その人はコミュニケーションに変えてくれた。今思えば、天才だとおもう。高校の頃にできた初めての彼女も、同じ類の人種だった。この経験は、2年後の自分にたしかに還元されていた。当時、いやそれまで一度も異性に対して「告白」というアクションをしてこなかったおれが、クソ寒い12月17日(木) 16時半の月寒公園のベンチで、30分も寝かせた「告白」をできたのも、全部この経験が元になっていると思った。

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とにかく個性の強い3-4の男女のほとんどの人と、その人に合わせた自然なコミュニケーションを図っていた。繰り返しだが、最強だと思っていた。他の女子は絶対に所有していないスキルだった。ただ本当に嬉しかったことの一つに、あの人とあの人はほんと苦手なんだよね、と2人で話してるときに言ってくれた。ああ、最強のこの人でもそう思う人がいて、しかもそれを凡人のおれに言ってくれるんだ…と、さらに敵わない人になってしまった。

27年間で関わってきた人の中でも、トップクラスに純粋で人間らしかった。一つ空いたおれの隣の席の女子とも仲が良かったその人が、椅子から立たずに、おれの背中越しにモノを渡したときがあった。

その女子が、「右手で渡すんだね。笑(左で渡す方が自然なのに、不自然になる逆手の右手でモノを渡した)」と述べた感想に対して「当たっちゃうから〜」と返していた。おれはそんな会話を聞いていない風を自然と装っていたが、思春期の男子には応えるものがあった。たくさん思い出せる日々の会話や風景でも特段未だにハッキリ記憶しているあたり、男は死ぬまで男子なんだなと思うところである。


7歳、14歳、21歳と奇しくも7の倍数の時だけ関わった思い出があるので、28歳となる2020年度の今、また再会することもあるのかな、なんて、夢から覚めて思った1日であった。

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