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ADHDがわからなかった頃のお話

おはにちわ、いちこです。
noteを書き進めようと思う日は晴れの日が多めです。
わたしの気分と天気は繋がっているのかな、とちょっと不思議な感覚に思ったので書き留めてみました。
さて、今日はADHDと診断される前のお話をしたいと思います。

ドタバタな幼少期

わたしは普通(?)の家庭で末っ子として生まれ、姉や兄と歳が離れていたこともあり、異常に甘やかされ可愛がられて育った。
2歳の時、自分の記憶もちゃんとある事件なのですがいつも遊んでくれていた姉がその日はおらず、姉と遊びたい!と思い立ったわたしは姉を探しに一つ隣の町にある駄菓子屋さんまで行くのです。
しかしまだ2歳。家の前で三輪車が転んだ状態で娘が居なくなった、事故か誘拐かと我が家は大騒ぎ。
それを知らないわたしは姉にいつも連れて行ってもらっていたので道をちゃんと覚えていて、お店のおばちゃんに一人で来たのかと尋ねられたが姉の姿が見つけられずすぐお店を後にして、家に戻った。
それからが大変でした。どこに行っていたのかと怒る母(当たり前・・・)でもちゃんと家に帰ったのにどうして怒られるのかわたしは意味不明。
今、この事件を振り返ってみると「姉と遊びたい!探しに行く!」という衝動性から来ている計画性のない行動だったのかな、と思っています。
小さい頃の記憶は割とちゃんとあるんですが、落ち着きがなくじっとしているのも苦痛だったし、シーンとしている空気に耐えられなかったり、椅子に座ってお話を聞いたりするのも苦手でした。偏食も多く、いつもごはんの時間は最後の一人になって遊ぶ時間が少なかったこともありました。
上記にも書いた落ち着きがない出来事といえば、静かにしなきゃいけない場面で騒いだりお隣のお友達にちょっかいをかけたりして、廊下に出された思い出もあります。その時、可哀想と思ったのか実習生のお兄さんが声をかけてくれた事も何となく覚えています。
今でもこだわりは結構強い方なのですが、この頃からももちろんありまして。トイレは必ず同じ場所(5つあったら左から二番目など)じゃないとダメ、できないということもありました。クレヨンも減り方が違ってくるとうわー!となったり、お気に入りの服を着続けたり(これじゃないと嫌!)、ルーティンが崩れる事もこの頃から嫌で嫌で仕方なかったです。
これについてはADHDゆえなのか自分の個性?からくるものなのかわかりませんが、幼少期から「なんかほかの人と違う」という違和感がありました。
【何】が違うのかは当時も今もわかりませんが、何となくこの頃から違和感を抱えていた記憶は鮮明にあります。
その違和感をこの先も抱き続けることになるとは・・・。

「普通」と思って過ごした学生時代

発達障害の診断は20歳すぎてわかることなので、高校まで普通学校で過ごしました。当時のわたしは個性と思っていましたが、今思うとハチャメチャだったな、と思うエピソードがいくつもあります。
幼少期から落ち着きない、じっとしてられない、注意力散漫はもちろん続いていて勉強は全然できませんでした。でも国語はなぜか得意で、読めば答えが書いてあるという理由でした。漢字を覚えるのは得意じゃなかったですが、母が漢字をちゃんと書けないと怒る人で沢山漢字練習させられたので国語だけは成績が悪くなかったです。
学校は社会と同じく人間関係が立ちはだかる場所、わたしは人間関係の構築が今でも本当に下手で、人との距離感がわからないので学校では本当に辛かったです。発達障害だから、だけではなく自分の性格ももちろんあったと今振り返ればそう思います。スポ少も男子に混ざってやっていて、多感な年ごろになった頃は男目当てでスポ少入ったとカースト上位の女子たちに陰口を言われていたこともありました。(発想がませガキィ・・・)
わたし自身、女の子が好むような遊びより男の子が興味を持つような遊びが好きなことが多かったです。ミニ四駆やポケモン、お昼休みは外でサッカーや野球したり。もちろん女子の間で流行ったシール集めや可愛い文房具集め等、そんなことも一通りしてきました。
中学生になると、わたし本人や仲良くしてくれていた友達がイジメのターゲットにされるなどちょっと辛い経験もしました。思い出すと悲しくなってしまうので内容は割愛しますが、わたしは男子にいじめらていてすごく悔しかったし学校に行くのも怖くなった。でも負けてばかりではないし腹黒さ満点のわたし、いじめの対象がわたしをいじめてた男子になりわたしにチャンスが巡ってくるのでした。イジメ返したわけではないですが、今まで好き勝手やってくれたなー!と一度だけ一言コノヤロー!と、スッキリして終わりました。
高校に入って、バイトを始めたり当時憧れていたバンドがやりたくてギターを始めたりしました。ギターは言うまでもなく、練習が嫌いというより集中力が続かない、左手と右手で違うことをする(マルチタスク)、わたしに不向き過ぎるものだったのです。小学生の頃に話は戻りますが、音楽の時間わたしは楽譜が読めなかった。これはADHDの特性なのか不明ですが目が滑ると表現すればよいのでしょうか、楽譜が浮かんで見えてしまったりして目で追えないのです。もちろん集中力もないし、そんな状態じゃ覚えられない。
楽譜が読めなくて見かねた先生が自分のパートをピアノで弾いたものを録音してくださり、それを聞いていつも歌ったり楽器を弾いたりしていた。
絶対音感とかそういう天才的なことではないですが、そうしないとみんなについていけなかったのでした。そういった対応をしてくれた音楽の先生には本当に感謝です。と、話は戻りまして・・楽譜が読めないわたしは致命的でした。タブ譜すら目が滑るのでギターは全然上達せず、本当に少しだけ弾けただけでバンドを組んだけど、ここでも人間関係につまずき終わりを迎えるのです。
肝心の学生生活はと言うと、もちろん上手くいくハズもなく勉学もだめ、人間関係の構築もダメ、バイトはそこそこしていたけどそこでの人間関係もだめ(先輩にいじめられたりいいように使われた)、リセット癖があるのでわたしは高校を中退することに。
話はちょっとズレますが、コンサータを初めてわたしに処方してくださった当時の主治医はコンサータを使い始めたことで生活が整い、できることが増えたことがあったので「たらればですが、学生時代にコンサータを用いていたら、違った学生生活を送れたかもしれませんね」と静かに話してくださりました。診察での何気ない会話の一部だったのですが、今でも覚えてる言葉を途中で終わってしまった高校生活の話の最後に思い出したので書いてみました。

振り返ってのひとりごと

初めましての投稿で高校時代から心療内科に通った話を端折ってしまったのでまた違うところで書きたいな、と思ったのと高校を中退してから発達障害が診断されるまでの4年間についてもまた書きたいと思いました。
誰かのために、何かの役に立てたら、というよりは自分の生きてきたことを記録しておきたかったのでまとまらない内容になってしまいました。
また次の投稿で。

お読みくださり、ありがとうございます。

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