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昭和を拭えないひとたち

いま生活しているひとたちと浅く深く接していると、昭和感覚から抜け出せない価値観を持ったひとびとが、一定数いるのを感じる。
ある環境においては、それは、良しとされないことで、思考の変革を求められたり、やり方をやんわり修正されたりする。

しかし、一個人として見てみると、それは案外、切なくも辛いことだなと思う。

自分が生きてきた価値観が否定され、変えたくもないのに、変えることを求められる。

なら、いままで自分が長い時をかけて習得し、培ってきたものは、なんだったのか?

そんな思いも、どこかにあるのではないか?と、わたしは感じるのだ。

確かに、価値観の崩壊、価値観の変化を余儀なくされるなんてことは、別に時代だけの話ではなくて、いまいるコミュニティが変われば、求められるものも、前提とされることも違うし、振る舞いも変わる。

ならば。

このとき大切なのは、すべてを否定することなく、表面上はガラガラと音を立てて崩れていくこれまでの価値観の奥に残る、ひととしての本質的なことなのではないだろうか。

学び直す、対応を変える、というのは、生易しいものではない。
だけど、社会は、それを求めている。

正解があるものではない。
時代が変われば、また、これまでの「あたりまえ」が、これからの「してはいけないこと」になっていく。

変化に耐えうる柔軟性が求められるけど、それが、本当にいいことなのかすらわからない。

だって、いまこの状態ですら、多様な価値観はネットに溢れているし、自分が思うことすら、いまの社会通念からは受け入れられることなのか、よくわからなくなることなんて、山程あるから。

だからこそ。

こころの奥底では、
「自分は自分」
と思えるメンタリティが必要なのだなと、改めて思う。

大変だよね、現代。
こんなに急スピードで流れて、ゆっくり考える余暇も与えられないのに、自分を持てないと、辛くなる。

こんなスピードで流れていれば、じっくりなんて、考えられるはずがない。

「あえてゆっくりしてみる。時間をかけて、じっくり考える。」

こんな、ひととして当たり前のことが、貴重な世の中。

さよなら、昭和。
でも、ある部分においては、大好きだったよ。
わたしは、いまの感覚を受け入れて、頑張っていくね。

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