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母を見送る準備

生き物の寿命って、生まれてくる時にもう決まってるのかな。
そう思ってしまうくらい、シナリオ通りな気もするし
そんなシナリオなくていいよ、とも思う。


あと1ヶ月持てばいい方

昨日、母が入院しました。
緩和ケア病棟です。
つまりは、もう退院することはない
最期の時間を穏やかに過ごすための入院です。

通常、大きな病院にも緩和ケア病棟というのはなくて
この先の治療が難しく、緩和ケアに…となると
緩和ケア病棟を持っている病院か、ホスピスなどへの転院が必要です。
そして、そういった場所もなかなか空きがなく、順番待ちなのだとか。

そんな中で母は、病気がわかった時からずっと治療をしてきた病院に
数床だけ確保しているという、ホスピスケア病床に入れてもらえることになりました。

母は、嬉しくて、安心して、泣いていました。

先生たちが最期見てくれるなら安心!
本当はそうしたかったけど、無理だろうから言えなかったと。


先月まで旅行に行ったり(相当体調悪くて、這うように行ったらしいけど…山道を4キロも歩いて)、次女の運動会を見にきたりできていて。
ウィッグをしていれば、病人とはわからなかったはずです。
それでも、検査の結果ではがんの範囲が広がってしまって
肝臓に負担がかかっているので、これ以上の抗がん剤治療が難しいかもと。

ああ、いよいよ覚悟をしないといけないんだなぁと

思った矢先、急激に体調が悪化、昨日入院。

先生は言葉を濁したけれど
1ヶ月もてば長い方、という感じでした。

ただただこの先は
母の苦痛が少しでも少なく、安心して最期の時間を過ごせることだけを祈ります。
面会が許されるようなので、行ける日には全部通うつもりです。
「江別のばぁば」が一番好きだった娘たちは、伏せっている姿を見るだけで
泣いちゃうと思うけど、孫たちも会いに行きます。

今年の夏はルスツにも行ったんだよ!!

1日1日を大切に


「健康診断で引っかかった、膵臓に影があるって」

2年半ほど前に、そう言われたのが最初。

余命宣告をされた今より
精密検査の結果を聞きにいくまでが
一番しんどかった…

何か違うものであってほしい、と思ったけれど
精密検査の結果は初期の膵臓がん。

よりによって膵臓……

家族に激震が走り、その日から全てが変わりました。
母は仕事を辞め
東京に住んでいた独身の弟は仕事を辞めて実家へ。

まだ、手術可能な大きさだったのが幸いで
すぐに手術。
10時間に及ぶ手術は無事に終わり
術後の経過も最短レベルで良好でした。
母の体力、基礎疾患のなさに感服。。

再発予防のための内服の抗がん剤を服用しながら
かなり元気に過ごしました。
みんなで旅行にも行き、多少制限があるものの美味しいものを食べ。

しかし、膵臓がん、本当に甘くない。
1年で再発。

点滴の抗がん剤を開始。
髪が抜けるということで、ウィッグも購入。
ただ、思ったほどのひどい副作用がなく
(吐き気などはなかった)
結婚してから、母と旅行なんて行けなかった私の

「旅行、行けるんじゃない?」の一言で

抗がん剤が始まってから、母と2人で沖縄に旅行にも行けました。

私より体力ある母。晴れ女すぎて冬の沖縄が異例の真夏日に

それから母は何箇所旅行に行ったんだろう…
父や叔母、弟と全国を回っていました。主に動物園を笑
母には推しのアーティストがいて
最後に行った旅行は、長野の山小屋で行われる推しのライブでした。

きっと、膵臓以外のがんだったら
母は仕事を辞めなかったと思う。
根治を目指して、治療に専念するために
旅行も制限して頑張ったかもしれない。

一番やばい(語彙力)膵臓だったからこそ…

1日1日を大切に、過ごせたんだと思います。

バラバラだった家族

うちの家庭環境は、激悪でもなかったけれど
決して良くはなかったです。

父親は、ギリギリ(とは)真面目に働いていたけど
とにかく堪え性がなくて…
キレれば物に当たり、怒鳴って出ていき
ひどい時は私にも手を上げたし
借金も2度作りました。
私たちが成人するまで母はそれを私たちに隠して
親戚に頭を下げ、節約しながら完済しました。

弟が発達障害と不登校で
母はいつも弟の心配で泣いてばかり。
私は…
そんな家庭のザ・長女として生きてきました。
何を言っても機嫌を損ねては
ヒステリックに怒られてきたので
母の機嫌を損ねたり、OKをもらえなさそうなことは
なるべく家族に隠す癖もありました。
(例えば、孫が風邪をひいたときに薬をどうするとか、そんなことまで)

実家を出てだいぶ楽にはなったけれど、
時々、悲劇のヒロインになっている母の電話に
数時間付き合っては、付き合った挙句
「あんたは冷たい、怖い」と言われていました。

弟が障害者手帳を取ったタイミングで
考え方の違いで
最後の大げんかをして

「ああ、私は家族をなんとかしたいとか、意見したりとか、もうしないほうがいいんだな」

と、諦めました。


その1ヶ月後、母の膵臓がんがわかったのでした。


そこから、家族がはじめて一つになった気がするんです。

なるべく楽しく。悔いなく。
それだけを考えて過ごした2年半。

病気があってよかったとは、本当に思いたくない。
思いたくないけれど
確実に、病気が家族の心を変えて、一つにしてくれたと
やっぱり思うんです。


母は、きっと一番先に逝ってしまう。
どんなに父や弟のことが気がかりでも、自分が逝った後は
自立して生きて行ってもらわなければならない。
今、喧嘩したってしょうがない。

私も、母に何か意見しようとかいう気持ちは一切なくなったし
育ってきた環境で自分の性格が多少アレしてても笑
別にもう気にしてないし

母からの干渉もなくなりました。

発達障害の弟はびっくりするほどしっかりしました。
障害者枠のリモートの仕事を見つけて実家で働きながら
家事を全てこなしてくれて
今後、独り身でも生きていける道筋をしっかり持っています。

父は大事なときにポンコツなのでわかりません笑
でも、一番不安で悲しかっただろうな
いつまでも心配なジィジだけど、ボケと酒に気をつけて
なんとかやっていってほしいなと思います。

自由人すぎて、実家にいた時から家族と出かける予定に参加しなかった私も
孫を連れて一緒に旅行に行き、実家にも頻繁に帰り

いつもいつも

「これが最後になるかもしれない」

と思いながら、過ごしてきました。

急にのしかかる現実



本当に2日前のことです。
母の調子が急に悪くなり、これはまずいと実家を訪問。

胃に転移したがんが原因なのか
ものがほとんど食べられなくなっていました。

実家では、もっと治療を頑張ってほしい父と、もう楽になりたい母で
言い争いが酷かったようで、吐き出すための話をひとしきり聞いて、母も休んだ頃。

すぐ近くに住んでいる母の妹、叔母と話をしました。
母が抗がん剤は嫌だと迷ったときに、毎日説得しにきてくれて
病院にも一緒に行ってくれて
毎日ご飯を作って届けてくれた叔母です。

「この家の柱はお母さんだったんだよ。そのお母さんがいなくなるの。
ってことは、しゃおりちゃんがこれからこれから頑張らなきゃいけないって事なんだよ!これから先、しゃおりちゃんは本当に大変だよ!」

と言われました。

わかっていました。

家族の決定権は全て母。大事な話は母にしか通じない。
(父は手帳持ちの弟を上回る発達障害です)
次にこの家を支えていくのは私です。

まだいるけど、母がいなくなっちゃうんだなぁ
どうなっちゃうんだろう、って

「そうだよね、アハハ」って言いながらも

静かにのしかかりました。

そして

「だから、お葬式まではおじちゃんおばちゃんがちゃんと、大変なところ全部やるからね!!!お父さん多分泣いてて使い物にならないから!それでいいから!!心配するんじゃないよ!!!」

と言ってくれて、もう、感謝しかなくて、涙腺は崩壊しっぱなしでした。
息子しかいない叔母が体調悪くなったときには
娘のように駆けつけようと心に誓ったのでした。

母がいなくなるということは
母にたくさん背負ってもらっていたものを
ちゃんとおろして、各々が背負い直すということでもあるのです。
成人したとき、就職したとき、子どもが生まれた時より一番

「ああ、大人にならなきゃなぁ」

と思ったかもしれません。
もう36歳なんだけどね。

生き物の寿命って決まってるのかな


実家で飼っていた初代の犬。
不登校の弟が何か心癒されるように、とやってきました。

お母さんみたいに弟にくっついては
手や顔を舐めてあげていて
弟が上京した翌日、亡くなりました。

母の病気がわかったのは、弟の発達障害をやっと受け入れ
今後の生き方が決まった後でした。
母にとっては、弟が一番の気がかりだったのだと思います。


「やりたいこと、全部やった気がする
精一杯生きた気がする。ギリギリまで頑張れた」


と言っていました。

きっと、母として生まれてきた人生を
色々あったけど生ききったんだと思う
病気があったから
嫌なことにフォーカスしないで
ずっと制限していた遊ぶことに夢中になれて
娘は結婚して楽しく仕事やってるし
心配だった息子の将来も見えた
周りの人の意外な優しさ(その逆も…)が見えて
本当に大切にしたい人間関係を選べるようになったし
入院すれば、先生や患者さんたちと仲良くなって
悩みも聞いてあげたくらいにして。
髪が抜ける前に写真館で素敵な家族写真を撮って
家の修繕やお墓の準備まで終えて
孫たちの運動会を見て
最後は、やりきった、と思った瞬間に
まだ痛みも強くない状態で
一番入りたかった病院で、安心する先生たちに
見守ってもらえている。

ここまでが、母の人生のシナリオだったんじゃないか、っていうくらい
完璧に思えてしまうんです。

わかってる。
振り返ったらきっと
「よかったね」「素敵だったね」って笑える。

病気がわかった時
再発した時
抗がん剤が効かなくなった時
そして今
何回も何回も泣いて覚悟を決めてきた。

でも

やっぱり嫌だよ

80歳のいじわるばあさんになってもいいから
生きててほしいよ。

おかあさん。



とはいえ、書けるということは
私はかなり元気なのです。
母もまだ起きている時はおしゃべりできます。
少しですが歩くこともできます。
最後の時間を、私たち家族らしく
なるべくたくさん大事にしたいと思います!

あまりにも個人的な内容
ここまで読んでくれてありがとうございました。

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