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わたしがわたしを抱きしめる。パニック障害、うつ病と付き合う岡颯紀さんが語る、自分を愛せるまでの話


こんにちは。岡颯紀(おか さつき)です。

わたしは、約2年間、パニック障害、うつ病と付き合っています。付き合いが長くなるにつれて、自分がなるべくいい状態でいられるような付き合い方が少しずつできてきたように感じています。

もしあなたが、自分に優しくできないことに苦しんでいたり、自分の弱い部分をなかなか認められないと悩んでいるのだとしたら、この記事がお守りのように寄り添ってくれることを願っています。そして、今こうして出会ってくれたみなさんとお話できることがとても嬉しいです。


わたしがわたしを抱きしめる

このテーマは1日かけて、じっくり考えさせてもらいました。かっこいいことを言えたらよかったのかもしれないけれど。最終的に今こうやって病気と付き合ってきてだいぶ自分に優しくなれたと感じることが大きいので、この言葉が浮かんだのかなと思います。

うつになって、気づいたのは、これは一時的な落ち込みじゃない、深い傷だってこと。
立ち上がるたびに穴を埋めてたのは、結局自分で、周りが承認を与えてくれても最終的には自分が納得できないとだめでした。
でも、自分の弱さは弱いままでもいい、それもわたしの大切な一部。
そう思えたとき、「自分を抱きしめられるようになった」、そう実感しました。
なにより、自分を愛せるようになって前向きになれた。
自分で自分を愛することが、特にこの病気や悩みに対しての最適解、自分としては理想の付き合い方だと思っています。


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うつ病とパニック障害

2年前、わたしが大学5年生のとき、うつ病と診断されました。
その当時の就活やアルバイト、恋人との関係性が、わたしを少しずつ蝕んでいました。症状としては、周りの景色がモノクロに見える、食べることが大好きなのに食欲がなくなる、少し歩いただけで疲れる、といった日常とは「なんとなく違う」というようなことが目に見えて現れるという状態です。
そして、最終的に「もう生きたくない」という考えだけが心の底に残っていました。
それしか考えられなくなったわたしは、心療内科に行って先生に話を聞いてもらうことに。
そこで先生から、
「おかさんは、うつ病だと思われます」
と、診断を受けました。


うつ病と診断されたわたしは、同時にパニック障害を認知しました。
思い返すと、はじめてパニック障害の症状(過呼吸)が出たのは中学3年生のとき。

わたしは小学生の頃からずっと女子特有の人間関係に違和感を感じていました。
馴染めなくはないけれど、突然くる不穏な空気感や影響力のある子にびくびくする毎日。


中学三年生のとき、その違和感からうまれた友人関係のひずみが、部活にもでるようになりました。
吹奏楽部で部長を務めていたのですが、部員たちの愚痴や文句を全部聞いてまとめることが役割だと思い込んでいました。誰に対してもびくびくしていたから、みんなに良い顔をしてしまって、
部員からも、「部長はどっちの味方なの?」と言われてしまい、また愚痴大会。
誰にも相談できず、どうしたらいいんだろうって考えても考えてもわからない状態が続きました。


そんなある日、読書の時間に急に涙がとまらなくなり、過呼吸になりました。これが、初めてのパニック。
さらに、保健室で休んでいたところへ様子を見に来た顧問の先生に「泣く前になんもしてねえからな。泣いてごまかすな。」と言われてしまいました。
本当は、励ましてほしかった。誰にも言えないことを、顧問の先生に聞いてほしかった。
そんな苦しみが一気に襲ってきて、その日は過呼吸を繰り返してしまうほどにつらかったです。
その日から、突然過呼吸などの症状が出るようになりました。
しかし、当時のわたしは、

「なんでこんなことに悩むんだろう。」
「泣くなんてずるいことをしている。」

そう思い込んで、結局誰にも相談できず、抱えきれなくなるという負の連鎖が起こっていました。

突発的な過呼吸が起こる時には、ただ時間が経って、症状が収まることを待ちました。
そのまま、パニック障害であると気がつかずに過ごすことになります。


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人に恵まれて育ったことは甘え?

その後の高校生活は、友人に恵まれたおかげで友人関係に悩むことは少なくなりました。しかし、進路や身近な人の死など、パニックの症状が起こるタイミングはありました。
しかしその時は、「たまにあるなあ」くらいにしか捉えていませんでした。

この頃までは、外的な要因によってパニックが起こっていました。
しかし、大学生になると内的な要因(自分の思考)から引き起こされるようになります。

それは、人に恵まれて育ってきたことを「甘えだ」と自分に課してきたことよって形作られてきたのかもしれないと、今では思います。


わたしは、本当に人に恵まれて育ってきました。
親戚はありえないくらい愛に満ちています。習い事、留学、インターン、自由にやらせてくれました。その分、恵まれてるぞ、と自分で自分に強く打ち立ててきました。

そんな恵まれた家庭環境の中で育ったわたしですが、大学に入ると、友達の中にも母子家庭や、金銭的に厳しい様々な家庭環境の人たちと出会いました。
わたしはお金持ちではないけれど、食べ物には困らない、仕送りもある。
そんな自分とは違う人たちを見て、わたしは「甘えて生きているんだ」と思うようになりました。
こどもは親を選べないから、しかたない。そう思いながらも、ぬくぬくと生きられる自分が許せなくなったのです。

だから、アルバイトを週5〜6日頑張って、金銭的に自立しようとしていました。仕送りに頼らない生活、引っ越し代にかかる費用、奨学金の返済、などなど。
休んでしまいたくなるときは、しょうがないと思う一方で、もっと頑張っている友達と比較して自分は甘えてると思って無理をしていました。
他人と比較をすることで、等身大の自分を見失ってしまい、無理をしていても気がつかないということが起こっていたように思います。

誰もなにも言っていないのに、悪魔の自分からうまれた「恵まれてるんだからもっと頑張らないとおかしい」という勝手な思い込みに縛られていました。
パニック障害やうつ病になったときは、特にそんな思い込みが強かったように思います。
”等身大の自分”を見失い、無意識に頑張ってしまう、そしてそれが症状として現れてくる。そんな、負の連鎖に陥っていたのです。



等身大の自分でいい、頭で分かってはいても自分を認められないこともあると思います。わたしも、つい最近まで、自分はまだまだ甘えていると思い込んでいました。
こうして等身大の自分に気づけている今、振り返ってみると、当時(中学〜大学生まで)のわたしはかなりが頑張っていたなあと思います。

何回もパニックを起こす中で、実は自分が限界だったと気がつきました。自分のキャパは意外と小さかったのです。
人と比べて、キャパが小さく感じ、できない自分が嫌だなとも思ったけれど、身体の悲鳴として出ている。ということは、意外と頑張っていたのかもしれない。
そんな過去の自分をみて、未来の自分にも良い意味で期待しなくなりました。
それは、諦めでもあり、ようやく自分で自分を大切にするということに納得していった感覚でもあります。


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病院に行く、という選択

今でも、自分で背負いきれずに負の連鎖が起こることはあります。けれど、これまでの傾向や経験から予防線をはることがうまくいくようになってきました。
これは、病気(パニック障害やうつ病)と診断を受けてから1年半くらいあとのこと。とても時間のかかることだけれど、この経験も含めてわたし自身を大切にしたいと思えています。


わたしが病気と向き合えるのは、心療内科に通い、先生と話す機会を作っていることが一つあると思っています。
そして、この選択は、わたし自身を大切にする一つの手段としてとても必要なものです。

初めは、病院に行く、特に心療内科や精神科に行くことは、わたしも抵抗がありました。
「自分はまだ行くほどではない」と思いたくてしかたなかったからです。

家族には恵まれていましたが、お母さんは教育に厳しかったこともあり、「心療内科に行きたい」って言ったら自分にがっかりするんじゃないかと、なかなか言い出せずにいました。
しかし、うつ病の原因の一つでもあった失恋中、今までの失恋と明らかに違う落ち込み方をしました。
そんなとき、「これは病院に行った方がいいんじゃないか」とお父さんが言ってくれました。わたしの状態は、生きるか死ぬかの瀬戸際。死ぬ勇気よりはお母さんに言う勇気のほうがあると思い、勇気を出してお母さんに話しました。

「病院に行きたい、こんなわたしだけど、がっかりしないでほしい」
そう伝えると、
「さっちゃんが回復するために、遠回りするより短距離で回復してほしい」
と言ってくれ、病院に行くことになりました。

初診は、2時間くらい話を聞いてくれました。行くまでは、適当に話を聞いて、薬を出されて終わり、というイメージを持っていたので驚きました。
真剣に聞いてくれる、家族でも友人でもない専門家からの言葉の安心感は大きかったです。
薬への抵抗感もあったけれど、服薬のおかげで日常生活送れるようになりました。



病院に行くのは怖いという人も多いと思います。
でも、わたしは病院に行って、薬を飲んで本当によかったと思っています。
先生は、フラットかつ専門的に聞いてくれるので、先生に話すと自分でも受け入れやすいです。
時には、先生に答えを出してもらうときや、薬の助けを借りて、不安なことを考えてしまう成分を抑えて寝ることもあります。
基本的に、自分が悪いと思い込んでしまうので、何かの判断を先生に託すことで先生のせいにできるような状態を作っておくのもわたしにとっては、必要なことです。(もちろん先生の合意のもとです笑)

より楽に生きられるようにサポートをしてくれる良い先生はいます。薬もお守りだと思えばいいです。
さらに、自分が病院に行き、専門的なアドバイスを受けることは、わたしを支えてくれる両親や周りの人の安心にも繋がっています。支えてくれる大切な人たちのストレスはなるべく少なくしていたいです。
心療内科に行くことへのハードルは高く考えすぎず、まずは話してみることがおすすめです。


病院に行くことや、両親に相談することも含めて、周りの人たちの存在が本当にわたしを支えてくれています。
甘えだと感じていた「人に恵まれている」ということは、今ではわたしを作ってくれている他には変えがたいくらい大切なものです。



わたしを愛せるようになった

わたしがわたしを愛せるようになったのには、もう一つ理由があります。
それは、自分にとってのお守りになるような言葉を紡げるようになったこと。


「つらいって思う感情を、そのまま受け取る」

これは、お世話になっている人のお母さんからもらった言葉です。
つらいとき、わたしは「なんでこうなってしまうのだろう」とずっとぐるぐる考え続けてしまいます。
でも、いくら考えても、分析しても、つらいときに良い考えはうまれないもの。
この言葉をもらってから、つらさやしんどさをあえてそのまま受け取ってみるようになりました。
感覚としては、抽象画を眺めているような感じです。
「ああ、今しんどいのね。」と、まるごと受け止めることも大切なのだと思うようになりました。


「今は、これまでわたしが自分で自分を律してきた中で、できなかったことの平均化」

このお父さんがくれた言葉は、わたしの支えになっています。
今、しんどくて休みたいと思うのは今までにがんばってきたことを平均化するために必要なことなんだ。
そう思えたら、長い目で見た時に休むことも悪いことではないと考えられるようになりました。


「人は、ひとりでは生きていけない」

どこかの記事で見た言葉。
よく聞く言葉かもしれないけれど、本当にそうだと実感しています。


こうやって、言葉にできるようになったのも、最初に誰かから言葉を受け取ったから。みんなからの言葉は一本一本の花だと思って受け取っています。
そのときは一本の花かもしれない。けれど、一本の花もたくさん集まると、花束になります。その花束は、自分が綺麗だと思える色やサイズ、アレンジがされている本当にお気に入りのもの。
その花束を大切にできたとき、ようやく自分を大切にする、ということに納得がいくようになりました。
自分の言葉が、わたしを守ってくれています。

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病気として、自分の症状と向き合って2年が経ちます。
その中で、時間をかけてゆっくりと、自分自身を大切にするという感覚をたしかに握れるようになってきました。

ずっと一人で抱え込んでキャパオーバーになっていたわたしですが、今では誰かと生きることの大切さを実感しています。誰かと一緒に過ごす中で、大切にしたいものを見つけることができているから。
そして、自分の思いや大切なものを大切にできるのは、やっぱり自分なんだと思います。
それができるようになったとき、わたしはわたしを抱きしめられるようになりました。


ここまで、読んでくださったあなたが、
あなたの大切なもの、そしてあなた自身を、ぎゅーっと抱きしめてあげられますように。


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ー 話し手
岡颯紀(おかさつき)

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ここには書ききれなかったエピソードもこちらにあります!
https://note.com/okapijournal/n/n313b41c8e7a0


ー 聴き手・編集
関野菜子(せきのななこ)

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ー お問い合わせはこちら

ジブン研究HP
https://jibunkenkyu.wixsite.com/jibunkenkyu


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