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「ソロ活」は楽しいか。母と食べたドーナツの味。

「ソロ活」?それとも「おひとり様」?

こんにちは。
このブログをお訪ねくださり、ありがとうございます。
若村紫星です。

数年前から、「ソロ活」という言葉が世の中でちょっとブームになりました。
今回は、この「ソロ活」について取り上げていきます。

いつの間にか気づいたら現れてた「ソロ活」という言葉。
そうした言葉の意味はあいまいなものなので、はっきりこういうものとは言い切れませんが、「ソロ活」とは、ひとりで外出すること、レジャーや食事、イベントをひとりで楽しむと言ったことを指す言葉なようです。
「ソロ」のライブ、グループでなく「ソロ」で活躍するなどというように、単独で何かをすると捉えるとわかりやすいですね。

「ソロ活」は、その少し前によく言われていた「おひとり様」とも一部意味がかぶります。
しかし、個人的な感覚ですが、「おひとり様」とは独身·パートナー不在でといった状況を少しネガティブ気味にとるような、そこに恋愛や性愛の対象の在・不在を匂わせるような雰囲気がある。
つまり、「おひとり様」は「ひとり」という状態や状況も示しているわけで…。
それに対し、「ソロ活」のほうは「活」という言葉が入っているように、それは「活動」のことで、しかもパートナーがいる・いないに関わらず、今この瞬間、単独で活動しているというニュアンスです。


母との思い出

突然ですが、「今日はなんか、特別なもの食べたいな」と思うことありませんか?
「特別」と言っても高級なものじゃありません。
雑誌で見たオシャレなカフェのコーヒーとか、少し遠出した先の駅ビルやモールなどで売りはじめた、海外由来のスイーツとかです。
わたしは母とよく、そういうお店に入ったり、話題の食べ物をテイクアウトしたりしました。

母はよく、わたしに、たまたま見つけた新しいお店や、雑誌で特集されている新しいスイーツなどの情報を共有してきました。
母は長いこと喫煙者だったため、煙草を吸える席があるお店(一昔前は店内でもあった)などの情報には特に目を輝かせていました。
パリが大好きだったので、「パリっぽい」カフェも好きでした。

わたしは煙草を吸いませんが、子どもの頃から長く母と行動を共にしていたので、その当時は受動喫煙しても平気でした。(母が吸わなくなって、わたしも禁煙席にしか座らなくなったら、街の喫煙所から漂ってくる煙だけでむせるようになりました)。
喫煙席も最後の方には空調が整っていたこともあるのかもしれません。
わたしが見たところ、煙草を吸う人たちは長居せずに一服できると満足して出ていくことが多かった。それで、喫煙エリアにわたしたち母子だけということもよくありました。


母亡きあと

母が亡くなって、今年の秋で7年になります。
亡くなった後も、「今日はちょっと贅沢しちゃおうかな」と思ってスイーツを買って帰ったり、「仕事で疲れたから、息抜きしてもいいよね」と帰宅途中でカフェによって、コーヒーを飲んだりしていました。(わたしはあまりお酒を飲みません)。

家にスイーツを持って帰って、「買い過ぎたか?多いな」と後悔していたのを「なんで?」と長いこと不思議がっていました。
無意識に「母の分」も買ってしまっていたからだと気づいたのは、つい最近、ここ3か月位前のことでした。
習慣が自分の体に染みついていたのです。

ただ、それに気づけたということは、習慣や母の思い出が、少しずつですが、剥がれ落ちてきている証拠。
これまでべったり自分に張り付いていたものが取れて、ようやく自分とは別のものとして母のこと、そして、その記憶と対峙できる余裕ができたのです。


美味しかったやつだよね?

同じように、最近気づいたのが、「これ、美味しかったやつだよね?」ということ。
どういうことかというと、一駅先のにぎやかな駅に出かけたので、そこでちょっと有名なドーナツ屋さんのドーナツを買いました。
期間限定の商品も入れてもらって、家に帰って食べるのが楽しみです。
さて、家に帰って、食べました。
「ん?」
その時のわたしの感想は、「ふーん」というものでした。
可もなく不可もなく。
こんな感じだったっけ?
実は、少し前から薄々気づきはじめていました。ちょっと奮発して、わざわざ電車に乗って家まで運んで来たのに、食べたとしても、なんも感じない、ということに。

最近の物価高で、食べ物の味が落ちのか?それもあるかもしれない。
けれども、やはり最近のこと。近所のコンビニで売っていたドーナツを朝食用に買って、翌朝寝ぼけ眼で食べた時、「うまっ」と一気に覚醒したのです。
「寝ぼけている時だったからちゃうん?」と、別の日のおやつに再び同じドーナツをぱくっ。
「うまっ」
コンビニのスイーツがどんどん美味しく進化してるのか?それもあるかもしれない、だけど…。


単純な答え

あ、そうか。
美味しかったのは、「美味しいね」と言う相手。
母がいたからなんだ。
そんなことに、ここ数日で気づいた次第です。

色んな味のドーナツを食べたくて、母が包丁で1つのドーナツを半分に切り分けてた。
それを2人で食べた。
分けたのに贅沢な、満ち足りた気分でした。
ドーナツのようなスイーツだけじゃない、買い物の合間によったカフェも、試しに入ってみたご飯屋さんも。
それらぜんぶ、贅沢だったのも特別だったのも、一緒にニコッと微笑み合う人がいたから。

今、ふと思ったが、同じドーナツを分け合って、「美味しいね」ということが、生活を分け合うってことなのかもしれない、と。

そう思うと、「ソロ活」っていったい、何なのだろう?
考えてみれば、「ソロ活」って、もともと、帰る「港」みたいもの、家族や恋人や友人、仲間なんかがいて、それらとの関係が充実している人が、ふいにその時だけ、「あえて単独で」行動するっていうことなのではないか。
もちろん、やりたいことが明確で、どうしてもこれがやりたいけど一緒にやってくれるひとがいないのでやりますというのならいい。
でも、たぶん、わたしがする「活動」は単独行動であっても、「ソロ活」とは呼べそうにない。
わたしは「ソロ活」を楽しむというタイプではないっぽい…。


名称にこだわらない

「ソロ活」じゃないなら、「おひとり様」かといえば、確かにその方がわたしには合っているかもしれない。
だが、それも完全にわたしの状態を示すことにはならないと思う。
わたしがドーナツの味に何も特別を感じなかった、その気持ちを言い表すなら、「わたしはひとりぼっちになってしまった」ということだった。
「孤独」という使い古された言葉がぴったりだった。
昔からある言葉は、やはりしっくりくる。

社会にある使い勝手のいい言葉。それらが悪いわけじゃない。便利は便利。
でも、自分のこと、自分の今の状態、その時の気持ちを見定める時は役に立たなかったりする。
自分に素直に。そして、正直になることで、やっと「ああ、自分てこうなんだ」ということが見えてくる。
それは、まるで霧が晴れて視界がよくなるような爽快さ。
すると、自分にぴったりな言葉が、すでに用意されていたことに気づいたりする。

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