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わたしの修行

「他人によく見られたい」という気持ちが、ものすごく強かった。いや、今も、強い。

その思考の源はおそらく「そのままの自分では認めてもらえない」というもので、それゆえにわたしは長らくの間、必死に格好をつけて、手柄を上げて、自分をよく見せようと躍起になっていた。

でも、このやり方には限界があった。
だからわたしは今、新しい「やり方」を身につける修行をしているのだと思う。

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突然だけど、先週の『関ジャム』を観た人はいるだろうか。

「急に何?」と思うだろうけど、先週の放送を観てから1週間経った今もわたしの頭にガツンと残っているシーンがあるので、それについて書きたい。

ちなみに『関ジャム 完全燃SHOW』は、ほとんどテレビを観ないわたしが毎週楽しみにしている番組のひとつ。毎週日曜の23時から、テレビ朝日で放送している音楽バラエティ番組だ。

それで、先週の『関ジャム』は、ボカロP特集だった。

特集テーマである「ボカロ」に対する興味関心云々というよりも、登場していたプロデューサーの人たちの「あり方」に「ああ、わたしもそうなりたい」と強く強く思った。

※先週の放送、11日(今日!)の22時まではTverで観られるみたいだから気になる人はぜひ。

特にここで書きたいのは、昨年リリースされて世間でもかなり流行った「うっせぇわ」という曲のプロデューサー・syudouさんについて。

ちなみに「うっせぇわ」の曲自体は、正直わたしにはちょっと歌詞の言葉が強すぎたのだけど、流行っている理由はものすごくよくわかる気がしていた。耳に残るフレーズと音。そして何より、賛否両論あるということの凄さも。

その「うっせぇわ」を作詞作曲したプロデューサーがsyudouさんであり、それまで無名だった人がこれだけのヒットを飛ばしたのだから、「俺ってすごいでしょう?」というニュアンスが出て当然だと思う。

それなのに。

syudouさんは「うっせぇわ」のボーカルであるAdoさんのことばかりを褒めて、「すべてボーカルのAdoさんのおかげ」というようなことを言っていた。

他にも、syudouさんの経歴や音楽を始めたきっかけなど様々な話をしていたのだけど、どれも格好をつけていなかったように、わたしには見えた。

その姿に、とても、くらってしまった。
格好つけていないことが、むしろとても格好良かったから。

あれだけの大ヒットを創り出して、メディアに注目されたら、わたしだったらちょっと格好つけたくなるだろうな。自分はすごいんですよ、スマートに生きているんですよと、シュッと洗練された感じをアピールしてしまうだろうな。

もっと正直に言えば、口だけは「周りの人のおかげです」といったようなことを言いながら、心の中では自分の手柄だと思っているような卑しさすらあるかもしれない。本当はそれが、とてもダサいことだとは気づかないままに。

格好つけないこと、曝け出すこと、自分の手柄にしないこと。

それを体現しているように見えたsyudouさんの姿勢が、わたしの頭の中に、今もイメージとして残っている。

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「そのままの自分では認めてもらえない」という気持ちは、いつから自分の中にあるのだろう。

もはや息をするように自然とそう思っていたわたしは、長らくの間、格好をつけることで、手柄を上げることで、なんとか人に認めてもらおうとしてきたような気がする。

ただ、この生き方はとても窮屈だったし、限界があった。

格好をつければつけるほど、本来の自分から乖離し、「わたし」の実体は消えていく。自分の凄さを主張すればするほど、周囲にはその「凄さ」だけを目当てに集まってくる人が増える。

そうしているうちに案の定、「わたし」がうまく機能しなくなった。

「自分」がいなくなり、何をやっても感情が動かなくなった。誰とも関わりたくないし、もう何もしたくないと思った。

このやり方は、これから先も続けられる方法ではないことを思い知った。

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格好をつけることなく自分を曝け出して、手柄を自分のものにせず、言うなれば「他人を勝たせる」ような生き方をする人達を初めて目の当たりにした時は、衝撃だった。

そんなことをしたら、損をしない?
認めてもらえないんじゃないの?
自分だけ置いていかれないの?

実際のところそういう人達は、損をしたり、認めてもらえなかったり、置いていかれたりしてることもあった。

だけど。

ちゃんと「その人の凄さ」を見ている人はいて。そして、少なくともわたしよりは幸せそうだったし、わたしは彼ら・彼女らのことを、とても素敵だと思った。幸せになってほしい人達だな、と思った。

それからというもの、わたしも格好つけず、自分だけ勝とうとせずに生きたいと思っている。だけど、思い始めてから数年経った今も、正直なところ実践できているとは言い難い。

わたしは今もたびたび格好つけて、自分を窮屈な場所に閉じ込めようとしてしまうし、自分の凄さを主張しては、そんな自分に落ち込んだりしている。

たぶんなのだけど、わたしが「うまくいかない」と感じるときは大抵、格好つけてることが原因だと思う。見てくれだけ「いい感じ」に整えようとしたり、スッとスマートな自分を演出したり。本当はまったくもってスマートじゃないのに、「他人からよく見られたい」という理由で、そう振舞ってしまっているような。

だからこそ、前述の通り先週の『関ジャム』のsyudouさんの振る舞いが、わたしにグサッと刺さったのだと思う。「あ、わたし今、こういう振る舞いができてないな」と。

「そのままの自分では認められない」と思い続けてきたわたしにとって「他人からよく見られたい」という気持ちは、そんなに簡単にはなくならない。

けれども、少しずつでもいいから、まったく完璧ではなく、欠けているところだらけで、ダサくて怠惰な自分でもいいと、自分で認めていきたいとは思っていて。

たぶん、文章を書いたり、それを発信したりすることは、その修行なのだと思う。

言葉を綴ることは、曝け出す作業だ。
少しでも偽れば、たちまちその言葉たちは死んでいってしまう。

だからなるべく、偽らないまま言葉を編んでいけるよう、精進せねば。


おわり
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