ハンガリーの片田舎エゲルの村は葡萄の収穫祭に沸き立っていた。 所狭しと出店が並び、どこかでダンスパーティでもやっているのか雑多な楽器が鳴り響いている。往来ではパレードの準備も始まっていた。 私の馬車は度々進行を妨げられ御者は苛立ったが、祭り好きな私には楽しい光景だ。あちこちでコンサートも予定されているようで、至る所にポスターが貼られている。民族音楽の収集をはじめていた私は何か目ぼしい演し物でもないだろうかと、それらを見るともなく眺めていたが、ふとある一枚に目が留まった。
河内平野は大和川の氾濫でできた土地である。 佐保川、曽我川、葛城川、高田川、竜田川、富雄川などの、大和盆地を流れる川はひとつになって大和川となり、生駒の山麓から河内地方に流れ出している。現在の大和川はそのまま西に横切って大阪湾に注ぎ込むが、これは江戸時代中期に行われた付け替え工事によるもので、それ以前は北に方向を向け、網の目のように支流に分かれながら、寝屋川や淀川に合流していた。 高低差の少ない土地柄のため流れは緩やかで、支流の多くは天井川となり、大雨が降れば氾濫を繰り
祖父が亡くなって一か月が経ち、ようやく元気を取り戻した祖母から父に電話が来た。 「姉ちゃんも兄ちゃんも、父ちゃんの持ち物を次々に持ち帰っとるど。おめは来ねえのけ」 不動産、証券、会員権、絵画など祖父が残した財産の分割協議は四十九日後と決まっていたので、末っ子の父は正直にその日を待っていたのだ。 「そんな馬鹿な」と、あわてて父が田舎に帰ってみると、祖父が大事にしていたライカのカメラやB&Wのスピーカー、Nゲージの鉄道模型……の類が無くなっていた。書棚にすべて揃っていた乱歩賞
雪がまだわずかに残る風吹峠を越え、一晩中歩きとおした山道が途切れたところで、突然視界が開けた。足下にまばゆい海が広がっている。たっつけ袴に編笠姿の三箇(さんが)孫三郎は二人の従者とともに足を留め、庇をあげてその光景に見入った。紀州由良の白崎海岸だ。 春分を過ぎたばかりの海原が朝の陽光を受けて穏やかに輝き、一面に明るい霞がかかっていた。岸辺には、太古の海の生物が石化したという白亜の奇岩がいくつもそそりたっている。それを目がけて無数の波がぶち当たっては、割れて散ってを繰り返し
木管とホルンが二小節の和音を鳴らした後、ヴィオラとチェロが静かにリズムを刻んでいく。タータタタータとこれが旋律かと思わせる単調さだが、数度の変奏を経て流麗な調べに変わっていくのだ。私は両腕で自分の肩を抱き、深夜の闇の中でひとり静かにその時を待つ。 ベートーベンの交響曲第七番、通称ベト七の第二楽章アレグレット。 初めて訪れた潤の部屋で聴いたこの曲が、迸る第一楽章を終えてこの部分にさしかかった、あの時のように。 曲想の変り様に驚き、つい無口になってしまった私の肩を、何を
竜の血を浴びた勇者は不死身となった。 その時、菩提樹の葉が舞い落ち、血のかからなかった背が急所になった。 「ワーグナーの『指環』はこの神話が元ネタなんだよ」 そう教えてくれた彼はもういない。 窓から金木犀が今年も忘れず匂ってくる。 甘い香に包まれながらBD(ブルーレイ)をセットする。 『神々の黄昏』の序曲が流れだす。 彼とは二学期のその時まで話をしたこともなかった。同じ駅から通っているので、通学途中に出会うとヤァという表情をしてくれる、ただそれだけのクラスメート
「この吹雪でも、あの人は来る。今日こそは」 山の娘、楓はいつもの場所にたたずんで、両の掌にそっと息を吹きかけ、背を丸めた。 毎朝この道を通る若者と知り合ったのは、半年前の風の強い日だった。飛ばされて谷川に舞い落ちた若者の帽子を、川で洗い物をしていた楓がすくいあげ手渡した時、二人の心が通い合った。 それから毎朝、若者は楓を呼びだすようになった。合図は口笛だった。いつも、甘くてちょっと苦いプレゼントを持ってきてくれた。 だけど秋頃から若者は口笛を吹いてくれなくなった
ほんの少しのおしゃべりのつもりだったのに、気がつけば一時間を越えていた。先月越してきたお隣の奥さんはわたしと同い年で気が合うものだから、ついつい。 「ナナちゃん、ごめんね。お利巧にしてた?」 六ヶ月になるわが子に声をかけながらリビングにかけこんだわたしの目に入ったのは、もぬけの殻のベビー布団だった。 「またかくれんぼなの。はいはいが上手になったのはえらいけど」 ダイニングに通じるドアが半開きになっている。さては、とわたしはポンとドアを押し開く。今日はどこから飛び出してき
「太陽をサッカーボールの大きさだとすると、私たちの星はゴマ粒くらいで70m先を回っているの。太陽から一番近い別の太陽(恒星)までは4.7光年だから、50㎞も先よ」 「へー、宇宙空間ってスカスカなんだな。銀河同士が衝突しても素通りか」 「そうよ、星と星がぶつかるなんてごくごく僅か。たった一億個くらいね」 「なんだ、大したことないんだね」 昼休み、16万光年離れたマゼラン星雲が光速で接近しているという怖い会話をした。近い将来、つまり16万年先に衝突するという。彼女は天体物理を専
二十五年ぶりのクラス会が終わって、幹事をしてくれた相馬亜希子に謝礼のメールを送った翌日、電話があった。ひとしきり儀礼的なやりとりの後、亜希子は笑いながら言った。 「面白いことばかり考えてた筒井君らしいね。手伝ってあげてもいいよ」 「よかった。じゃ、レコードを借りにお邪魔しなくちゃ」 「今度の土曜日、うちに来てくれる? 覚えているでしょ、桜ヶ丘住宅よ」 「一軒に一本ずつ桜の木がある住宅地だったっけ」 「そうそう。昨日から満開になってるわ」 六年生の音楽会の演奏がレコード