フランツ・リストの弟子

 ハンガリーの片田舎エゲルの村は葡萄の収穫祭に沸き立っていた。
 所狭しと出店が並び、どこかでダンスパーティでもやっているのか雑多な楽器が鳴り響いている。往来ではパレードの準備も始まっていた。
 私の馬車は度々進行を妨げられ御者は苛立ったが、祭り好きな私には楽しい光景だ。あちこちでコンサートも予定されているようで、至る所にポスターが貼られている。民族音楽の収集をはじめていた私は何か目ぼしい演し物でもないだろうかと、それらを見るともなく眺めていたが、ふとある一枚に目が留まった。

 ――来たれ! リストの弟子セイ・アリスピアノ演奏会開催

 知らない名だった。私の弟子ではない。名前が騙られているとしたら看過できないことだ。
「ちょっとお尋ねしたいのだが」
 通り掛った村人にアリスの居所を尋ねた。
「ああ、あのピアニストですかい。村外れの教会に父親と滞在してるよ」
「上手なのかね」
「偉い音楽家の弟子だっていうから上手いんでしょうな」
 急ぐ旅ではない。とにかく立ち寄ってみようと思った。

 教えられた教会に近づくとピアノの練習音が聞えてきた。幾度も同じ個所で間違いを繰り返している。下手ではないがこの曲は荷が重いだろう。
「喧しい鐘みたいな曲だね」と御者が呟いた。
「悪かったね。私の作った曲だよ」
 普段、私以外には弾く者のない超絶技巧の難曲だ。

 馬車から降り庭に回った。窓越しにピアノを弾く赤毛の少女が見えた。側で父親らしい男が怒鳴っている。
「弾け。弟子と名乗るからにはこれくらい弾きこなさないとな。ポスターの嘘がバレると、この村におれなくなるぞ」
 こいつが騙りの張本人か、と怒りを覚えたとき、アリスが叫んだ。
「こんな曲、演奏不能だわ。つまらない曲よ」
「なんだと」
 父親の声と私の呟きが重なった。
「何度でも言うわ。どうせリストが自分の腕を見せつけるために作ったんでしょうよ。どうせならショパンの弟子にしてくれたらよかったのに」

 アリスの言葉は私の胸を抉った。
 道理でこの曲を誰も弾いてくれない訳だ。
「すまない。予定変更だ。今夜はここに泊まることにする」
 御者に命じてやっと見つけた村の旅籠で、私は一晩かけて譜面を書換えた。練習で聴き取ったアリスの癖や弱点をカバーすると、少し手練れの演奏者なら弾きこなせそうな流れになった。
 ――最初からこういう風に作ればよかったのだな。

 翌朝、再び教会を訪れた。
「これを弾いてごらん」
 アリスは一瞬目を丸くしたが、何かを悟ったのだろう。静かに譜面に目を通すとピアノに向かった。最大十五度の跳躍、薬指と小指のトリル。まだ決して簡単ではないが完璧に弾いた。
「リスト先生……ですね。私大変な嘘をついてしまいました」
「嘘じゃない。これでもう君は私の弟子だよ」

 アリスのお陰で生まれ変わった「ラ・カンパネラ」は多くの人々に愛される名曲になる。

   ◇ ◇ ◇

 カンパネラとはイタリア語で鐘のこと。パガニーニのヴァイオリン協奏曲の主題を元に作られたので、正式には「パガニーニによる大練習曲第三番」と呼ばれる。この物語ではアリスのために書き換えられたことになっているが、実際は三度書き換えられている。

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