たった四駅の……

 竜の血を浴びた勇者は不死身となった。
 その時、菩提樹の葉が舞い落ち、血のかからなかった背が急所になった。
「ワーグナーの『指環』はこの神話が元ネタなんだよ」
 そう教えてくれた彼はもういない。
 窓から金木犀が今年も忘れず匂ってくる。
 甘い香に包まれながらBD(ブルーレイ)をセットする。
『神々の黄昏』の序曲が流れだす。

 彼とは二学期のその時まで話をしたこともなかった。同じ駅から通っているので、通学途中に出会うとヤァという表情をしてくれる、ただそれだけのクラスメートだった。
 その日、帰りの駅は架線事故で大混雑だった。朝の満員電車よりひどい状態で、密着した人の不規則な動きで髪の毛やスカートが引っ張られ不愉快極まりない。そのとき、わたしのセーラー服の肩のあたりを誰かが触った。
「歩かない?」
  振り向くと彼がいた。
「たった四駅だ。歩いて帰ろうよ」
 授業中の声とはちょっと違うハスキーな、初めて聞く彼の肉声。
「そうね」
 ちょうど漂ってきた金木犀の香に、誘われるように頷く。

 彼は早足だった。わたしはややもすると遅れ気味になり、小走りになったりしながら彼を追いかける。そうすると、プリーツのスカートがひざを軽くこすり、普段気づくことのない心地よさを感じた。
「勇者は全裸で血を浴びたってことだよね」
「キャー」
「そして、急所を知った僕らはきっと呪われる」
「コワイ」
 秋の午后、他愛のないやりとりが楽しくて、わたしたちは笑い転げた。
 別れ際『指環』のBDを貸してくれた。
 これから何かが始まる、そんな期待があったのに、
 その夜、やはり呪われたのか、彼は車にはねられ死んだ。

 初七日後、呪いのBDを返しに彼の家を訪れた。
「あの子にこんな可愛い恋人がいたなんて」
 お母さんの勘違いはちょっと嬉しくて、
 だから、たった四駅の仲とは言えなくて……。
「これは貴女が持っていて。時々あの子のことを思い出してやってね」
「はい」
 わたしは素直にそのBDを貰うことにした。お母さんの「恋人」のひと言で呪いはすっかり解けていたから。
 お線香をあげさせてもらったとき、細い煙がたなびく向こう側で彼の写真が揺れて見えた。「ありがとう」と言っているみたいだった。
 何のお礼なの、とわたしはつぶやく。お母さんの前で恋人を演じてあげたということだったら、それは違うよ。わたしたちはもう、四駅だけの間柄じゃないんだから。
 帰り道に金木犀が香っていた。

 早いものであれからもう1年。
 今年も突然のように金木犀の香りがやってきた。
 わたしはいつものように、BDをスキップして「ジークフリートの葬送」の場面を呼び出す。1年は短く感じるのに、4時間半の『神々の黄昏』は、なぜかわたしにとっては長すぎる。

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