合わせ鏡の裏側は……

「この吹雪でも、あの人は来る。今日こそは」
 山の娘、楓はいつもの場所にたたずんで、両の掌にそっと息を吹きかけ、背を丸めた。 

 毎朝この道を通る若者と知り合ったのは、半年前の風の強い日だった。飛ばされて谷川に舞い落ちた若者の帽子を、川で洗い物をしていた楓がすくいあげ手渡した時、二人の心が通い合った。
 それから毎朝、若者は楓を呼びだすようになった。合図は口笛だった。いつも、甘くてちょっと苦いプレゼントを持ってきてくれた。

 だけど秋頃から若者は口笛を吹いてくれなくなった。木立に待つ楓の姿が見えないのか、今日も無常に素通りしていく。
 待って、と呼び止めるため、楓も口笛を練習しているのだが、まだうまく吹けない。
 雪が止み陽が射して雪道が鏡の如く輝いた。

           ◇ ◇ ◇

「この吹雪でも、会社は休めない。つらいな」
 箪笥の奥から一年ぶりに防寒服を取り出し、袖を通しながら僕は呟いた。
 ポケットからチョコの空箱が出てきた。
 ふと、去年山で帽子を拾ってくれたカエデのことを思い出した。お礼にチョコをやると喜ぶので、何度か通勤の途中で出会うたびにやっていたのだが、この空箱はそのときのものだ。

 カエデという名は市の観光課にいる友人から聞いていた。そんな名前の雌猿がいる、彼女だろうと教えてくれたのだった。
 この山に生息する日本猿は六十年程前に餌付けに成功したというが、観光客にもてはやされて人馴れしてしまい周辺の民家に被害を及ぼすようになっていた。そのため、昨年の秋から「餌やり禁止条例」が施行されたので、カエデにチョコをやる機会はなくなったいたのだが。

 帽子を飛ばした渓谷にさしかかった時、風がヒューと鳴った。掠れた口笛のようだった。  
 雪が止み陽が射して雪道が鏡の如く輝いた。

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