白崎は幸くあり待て……

 雪がまだわずかに残る風吹峠を越え、一晩中歩きとおした山道が途切れたところで、突然視界が開けた。足下にまばゆい海が広がっている。たっつけ袴に編笠姿の三箇(さんが)孫三郎は二人の従者とともに足を留め、庇をあげてその光景に見入った。紀州由良の白崎海岸だ。
 春分を過ぎたばかりの海原が朝の陽光を受けて穏やかに輝き、一面に明るい霞がかかっていた。岸辺には、太古の海の生物が石化したという白亜の奇岩がいくつもそそりたっている。それを目がけて無数の波がぶち当たっては、割れて散ってを繰り返している。

「見事なものでございますな」
「音に聞く白き岬の白崎だよ。あれは石灰(いしばい)の塊であるらしい」
 孫三郎はそう教えると、首筋の汗を拭って息をつき座り込んだ。ここはもう春の陽気だ。
 ふと、口をついて出てくる歌があった。
 
 白崎は幸くあり待て大船に真梶しじ貫きまたかへり見む

 よみ人知らずの万葉歌をなぜ自分が諳んじていたのだろうと考えながら、孫三郎は遠く薄っすらと見える島影に目をやった。阿波だ。
 ここからあそこまで、この海峡を三箇の船に渡らせるのは難しくない。足利義昭を阿波に船で逃がす手もある。昨年七月、宇治槙島で織田信長に叛旗を翻して敗れた義昭が、紀州由良の興国寺に流れ着いているという情報が、堺の小西隆佐からもたらされていた。

「わしはひとまず信長に降伏する。公方の行方はそなたが追え。追放されたとはいえまだ征夷大将軍だ。探し出しておけば必ず役に立つ」
 信長の名代として、旧主松永久秀からその居城である多聞山城の明け渡しを受けたとき、久秀から伝えられた言葉がよみがえった。
 孫三郎が信長につき、久秀が義昭について背いたのは単なる危険分散であった。身動きできない久秀に代わって、いま義昭は孫三郎の手の届くところにいる……。
 ──白崎の磯よ、我が首尾を待っていよ。
 雄大な眺めは大胆な考えを助長させると思いながら、孫三郎は万葉歌をもう一度吟じた。(未完)

   ◇ ◇ ◇

 三箇孫三郎の名は、戦国期に河内地方で隆盛を極めた河内キリシタンのひとりとして、大阪府の四条畷市、八尾市、大東市などの市史に繰り返し出てきます。いまでは遺構一つ残っていない河内キリシタンに、そんな時代があったのかと興味をそそられ、孫三郎という人物に活躍させてみようと書いた掌編です。

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