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恐怖のホラー改革/ゴブリンとダリオ・アルジェント

 現在では、ホラー映画にロックが流れるのはおかしいことではない。なにせ、ホラーとロックは食い合わせがいい。タランティーノ的なアプローチで既製のロックの名曲を「ここぞ!」というところで流したり、ヘヴィロック系の旬のアーティストに曲を書き下ろさせ、秒単位で湯水のように音源を使いまわしたりと色々だ。いいアーティストをつかまえられれば、サントラの売上も見込めるので製作者としてもウハウハだろう。

ところがしかしである


 ロックという音楽の誕生から、それが映画の恐怖演出に応用されるまでには時間がかかった。ロックンロールが生まれ、ロックと呼ばれるようになるまでの1950〜60年代の映画音楽では、フルオーケストラによる演奏が主流だった。唯一、気を吐いたのがヒッチコック。少し遡るが、1945年の「白い恐怖」では、フルオーケストラに電子楽器テルミン(箱体から伸びた二本のアンテナに手をかざすことでミョーンという不思議な音が出るシンセサイザーの元祖)の演奏を取り入れた音楽を使用する先見の明を見せた。

( ↑ 素晴らしいカバー演奏!!)

 ショック、サスペンス演出には、電子音楽やミュージックコンクレートなどの現代音楽的な手法が取り入れられることが多かった。それらの音楽は、不快な音や不気味な音を使うことに躊躇しなかったため、神経を逆撫でたり、不安を感じさせるような効果を映画にもたらす効果があったからだ。「死刑台のエレベーター」マイルス・デイヴィスのように、ジャズのクールな緊張感を取り入れた映画は徐々に増えていたが、軽快なダンスミュージックであるロックンロールがそれにとって代わるには、コケ脅し、ハッタリが全くもって足りなかった。

プログレッシブロックの台頭

 1960年代に世界中を席捲したロックバンドは間違いなくビートルズだ。デビュー当初から中期までは、親しみやすいメロディーとわかりやすいカッコよさで万人受けするヒットを文字通り連発した。世界中をツアーする生活に疲れ果てた彼らはスタジオに閉じこもって様々な実験を繰り返すようになった。サイケデリック、ラヴ&ピースといった新しい潮流も貪欲に取り入れ、1967年にアルバム「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」を発表。これによって彼らはロックを次のフェーズへと引き上げたのだった。そんな後期ビートルズの実験精神に多大なる影響を受け、新しい音を模索する試みが、プログレッシブ・ロックという流れを生んだ。1967年から1970年までの間に、ピンク・フロイドキング・クリムゾンイエスといったバンドが次々とデビュー。ジャズ、現代音楽、クラシックと各々が得意とするジャンルをロックに取り込み、それぞれの音を世界に向けて発信した。プログレは、それまでのロックにはない緊張感、壮大さをも表現した。ついにロックはコケ脅し、ハッタリを表現する術を手に入れたのだ。

 中でも大物感満載だったのが、キース・エマーソン率いるエマーソン・レイク&パーマーだ。このEL&Pの音楽性は、クラシック的なテーマをジャズのテクニックとロックの衝動で演奏するという欲張りなもの。難解なようでいて実はわかりやすいスタイルは世界中で人気を獲得。とくに大ウケだったのがイタリアで、そのスタイルを真似たプログレバンドが次々と結成された。

 そんなミュージシャンの中にクラウディオ・シモネッティというキーボーディストと、マッシモ・モランテというギタリストがいた。彼らは1972年ごろ、オリバーというEL&Pタイプのプログレバンドを結成し、成功を夢見て渡英した。しかし、イエスのプロデューサー、エディ・オフォードと接触しデビューを模索するも具体化の見通しが立たなかったため、1年で帰国した。イタリアのチネボックスレコードと契約し、映画のサントラを演奏するバンドとして活動を再開した。会社の意向で、バンド名はチェリーファイブに変更された。映画仕事の傍ら、初のオリジナルアルバム制作も行うが、リリース直前に作業は頓挫する。ダリオ・アルジェントという映画監督から急遽、仕事の依頼が入ったためだ。


アルジェント現る

 ダリオ・アルジェントは映画評論家、シナリオライターを経験し、監督業に進出。ジャーロと呼ばれる猟奇サスペンスを得意とし、トリックや推理よりも、インパクト、映像の鮮烈さ、ショック描写に力を入れるタイプの作家だ。1975年に公開のジャーロ 「Profondo Rosso」(のちに「サスペリアPart2」として日本公開)制作中のことだ。彼は作曲家が仕上げてきたスコアのジャズ的なアレンジが気に入らなかった。クールなモダンジャズよりも、もっと刺激的で煽情的な音楽を欲していたのだ。何かいい音はないかと様々なミュージシャンを物色した。そして、もともとEL&Pのファンである彼は、紹介で耳にしたチェリーファイブのデモテープに目を付けた。これはひょっとするとうまくいくのではなかろうか。前任の作曲家はクビになったが、いくつかのマテリアルは残していった。追加となる音楽が必要だ。アルジェントはチェリーファイヴにオファーをかけた。すると、アルペジオと、チャーチオルガン、リズムセクションが共演するインパクト抜群のタイトル曲が、わずか3日間で練り上げられ、早々と録音された。完成した映画の映像と音楽の相乗効果は抜群であった。アルジェントにしては珍しく(?)よく練られたオチの衝撃さと相まって、映画もサントラLPも大ヒット。LPリリースにあたってはアルジェントの提案でバンド名をゴブリンと改めた。
 「Profondo Rosso」は、アルジェントとゴブリンの世界進出の足がかりとなった。ゴブリンは、映画で使用された曲を演奏するツアーを成功させ、勢いに乗ってオリジナルアルバム「ローラー」を発表するが、こちらは売れなかった。リリースが遅れたチェリーファイブ名義のアルバムも、「Profondo Rosso」のヒットの陰に隠れてしまった。自作の不評はメンバーを大いに落胆させ、「映画仕事で食っていこう」と決意するきっかけともなった。

究極のホラー音楽「サスペリア」

  「Profondo Rosso」の2年後、アルジェントは自身初のホラー映画「サスペリア」の製作にあたって、再びゴブリンを招集する。「サスペリア」はドイツの名門バレエ学校に留学したアメリカ人の少女が、学校の影に潜む魔女の恐怖に脅かされる物語である。
 アルジェントは中世の魔術を連想させるような音楽を欲しがり、実際に古典音楽をいろいろと調査していた。その折、チネボックスのスタッフが、ラテン語の題がついた古いメロディーを見つけた。その題を訳すと「木の上の3人の魔女」という意味だった。「魔女」という共通点を持つ発見に驚いたアルジェントとゴブリンは、そのメロディーを採用。タイトル曲の製作に入った。オルゴールのような音色でアレンジを加え、ブズーキ、タブラなどの民俗楽器、変調させたささやき声などを使った音響処理などで彩っていく。そして、中間部に爆発するかのようなワンコードの即興パートを加えて完成。ホラー映画とロックが見事に結びついた瞬間だった。

 ほかにも独創的な工夫が凝らされた。サンプラーの元祖と呼ばれる電子楽器、メロトロンにチャーチオルガンの音を録音。教会までいかなくとも、スタジオで自在にチャーチオルガンの音色をコントロールできるようにした。この音はタイトル曲の即興パートや、数々のショックシーンで効果的に使用されている。また、手弾きのアレンジではなく、コンピュータ制御によるシンセサイザーとの同期演奏も披露している。数々の音響処理によりコケ脅し感も倍増。ティンパニの連打にディレイをかけて、うめき声をかぶせるといった悪趣味なアレンジも、ここでは功を奏している。アルジェントの原色を多用する異様な色彩感覚と、中世から残る魔女、魔術というコンセプトと一体になったゴブリンの音楽は観客の耳にいい意味でのトラウマを残した。「サスペリア」は世界各国で大ヒット。1970年代のホラー映画を語るときは、避けて通れない作品となった。サントラLPはイタリアに次いで日本でも好セールスを記録。現在でも定番商品としてレコード店に並んでいる。

編集の違いでゴブリンの印象が変わってしまった「ゾンビ」

 「サスペリア」の世界的ヒットに気を良くしたアルジェントは、伝説のホラー映画「ナイト・オブ・ザ・リビング・デッド」を作ったジョージ・A・ロメロ監督とタッグを組む。のちの代表作、「ゾンビ」の製作に資金を提供したのだ。音楽はもちろん、ゴブリン。「ゾンビ」は複数の編集違いのバージョンがあることで有名だ。ことの発端はアルジェントとロメロで配給権をシェアしたことからだ。アルジェントが権利を持つ地域では、アルジェントが監修した編集で公開された(現行ソフトでは『ダリオ・アルジェント監修版』)。「ゾンビ」の音楽は、アクションシーンを強調するかのように軽快なハードロックサウンドに仕上げられた。アルジェント版ではゴブリンの音楽が全面に押し出され、中学生たちのハートを鷲掴みにするカッコよさに溢れたバージョンとなった。

 一方、アメリカではロメロ自身が編集したバージョン(同じく『米国劇場公開版』)で公開された。登場人物たちの心理的なドラマ描写に重点が置かれており、なんとゴブリンの音楽はアーカイブ音源に差し替えられ、オープニングと一部のアクションシーンに残されただけだった。上映時間もアルジェント版より10分ほど長い。日本での初公開はアルジェント版を基に日本で独自の編集を施したものだったため、映画ファンは「サスペリア」に続いてゴブリンの音楽に衝撃を受けることとなった。しかし、80年代にリリースされたビデオソフトはロメロの意図に忠実な米国版だったので、日本のファンは未公開シーンを見られる喜びと、ゴブリンが聴けない不満で心を千々に乱されたのだった。

そして・・・

 「ゾンビ」は世界的なヒットを記録し、アルジェントとゴブリンの蜜月は当分続くかと思われた。しかし、バンドは相次ぐメンバー交代に活動が停滞してしまう。1980年にアルジェントは再び世界市場に向け、アメリカ資本で監督作「インフェルノ」を製作。音楽にはゴブリンではなくEL&Pを解散させたばかりのキース・エマーソンを起用した。エマーソンは健闘したが、映画そのものは興行面で不振に終わった。アルジェントは以降、「シャドー」「フェノミナ」と立て続けに作品を発表。再びゴブリンとタッグを組むが、後者ではアイアン・メイデンやモーターヘッドを挿入曲として使用するなど、音楽の使い方に意識の変化が見られた。
 アルジェントは以降もマイペースで映画を作り続けている。80年代後半以降は精彩を欠く作品が目立つが、熱狂的なファンは未だ多い。2001年には「スリープレス」で久しぶりにゴブリンと組んだ。ゴブリンは21世紀に入ってCDの再発が活発となり、バンド周辺がにわかに盛り上がる。そして満を持して2009年に32年ぶりのライブ演奏ツアーを敢行。続く2010年もヨーロッパを中心にロックフェスに出演して存在感をアピールした。アルジェントもゴブリンも、今はホラーのアイコンのような存在となっている。タランティーノやイーライ・ロスなど彼らへのリスペクトを隠さないフォロワーも多い。ゴブリンとアルジェントが作り上げた猟奇的で耽美的な世界に触れてみれば、きっとあなたは虜になるだろう。

ただし・・・「決してひとりでは見ないでください…」。

※2014年頃、某フリーペーパーに掲載した原稿を基に加筆修正を致しました。

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